2011年11月6日日曜日

独裁は後景にしてきたはず

 独裁で世の中を変えるということができるかということは、歴史の上では退けられてきた。ファシズムが歴史の上で退けられてきた。

 だがしかし、わが下世話では言葉にこそ出さないが「独裁」に期待する向きはないか。「首相が変わったら」という待望論も、実は強行政治待望論でないか。

 小泉政権にはしてやられた。自民党独裁政治がもたなくなって、自民党を批判するという見せ掛けで自民党政治を続けさせた。

 小泉政権発足は、小泉批判をする余地はみごとに封鎖されていた。ここにもマスコミを利用した「ファシズム色」があった。

 大阪市長にでている御仁に、「独裁」で日本を変えていくということを標榜しているひとがいる。批判を許さないとうこと。黙ってしたがえ、さもなくば免職という条例を大阪府議会に上程した。

 そして、府知事を辞職した。そりゃ自由ですよ。いつ止めようと、やめてなにやろうと、法律に触れなきゃ。でもねえ、奇異じゃありませんか。

 もっとも、法律に触れなけければなんでもOKという学び方をしたんでしょうか。「なにかやっているし、やりそうだ」が賛意としたら、それは危険だと思う。

 マスコミはことの本質をなかなか伝えない。伝えるのは「視聴率」絶対主義といっておこう。営利企業ですからね。

 その点、「ツイッター」の世界では生の情報がたくさん飛んでいる。大阪のその人も「言いたい放題」を満喫している。