2016年1月14日木曜日

釣りの元会長さんが逝かれた

 つりの会の会長を長らく務めたFさんが他界された。もう20年以上にわたって、毎月の常会と釣りの例会で、お付き合いをさせていただいた。月に一回開く常会では、打ち合わせの話の合間に、過去に釣った魚の釣れ具合と、たくさん釣れた時の話を持ち出すのが通例だった。しかし、いつも相談の最後には、会員さんへの連絡はどうするのか、餌はどうするのかと念押しも忘れなかった。

 正月の丹沢湖のヤマベ釣りに、手製の煮込みうどんをいつも準備してくれて、ふうふうと湯気を飛ばして食べたときは、反応が悪いヤマベのことは忘れて、釣りの会の楽しみを味わえた。城南島のハゼ釣りの時は鍋と油を用意して、つれた魚を即唐揚げしてくれたことも忘れられない。上げ方は上手なものだった。マス釣り場の例会では、特性のカステラのネリ餌をつくって、皆に配ってくれたこともあった。このエサはよくマスが釣れた。
 
 最近は高齢のために、こうしたことはかなわないことになってしまったが、それでも時折ハゼつりには行っては、粘りながら結果を出して感心させられた。会の世代交代が思うに任せず、高齢にもかかわらず会長席に長くついていただいてしまったことを、申し訳なく思っている。

 Fさんは子供のころから江古田で育った。「自伝-江古田に生きて こころの引き出し」で釣りにふれて書かれている。

~妙正寺川で釣りをした。妙正寺川は両岸が藪だらけで、メダカから鯉やスッポンまでなんでも沢山いた。釣り道具が今日のようにそろっている時代でなかったから、まず釣針つくりからはじめる。縫い針の錆びたやつをもらい、ローソクの火で先の方を曲げる。糸は木綿糸で、竿は藪の竹を切りだして使う。えさはご飯粒、みみずといったところ。こんなおそまつな道具である。六さんが小学校の一年生になった夏、妙正寺川に連れて行って藪をかき分けて釣竿を出したが、なかなか釣れなくて飽きてきた頃、竿を何となく引き上げたら大きなタナゴが針に引っかかっていた。『わあ、兄ちゃん魚が釣れた』と大声を上げてよろこんだ~


 100歳の年齢を重ねられたのだから、90年以上も前のことで「釣り道」もなまじのことでない。政治の不条理にも怒り、釣りに親しんでこられたFさんに心から哀悼の意を申し上げたい。