2012年9月5日水曜日

枝豆より不幸


 岩手山麓から枝豆を送ってきた。雪解けの後、人に頼んで土を起こしてもらって、種をまいたものが撒いたものが実った。堆肥を入れ雑草を取り払って貰って育った。豆の入りが少し小さくて、何かの影響があったものだろうが、味は悪くない。

 豆が小さかったから、もう少し待とうと様子を見ていたら、黄色くいなってきたので、急いで刈り取って収穫したのだという。山麓の気温と土、雨の量などの影響で成長が変わってくる。なにが原因かは率直なところ分からない。いや実はわかっているけれども、我々が知らないだけかもしれない。ともあれ自然のパランスは微妙のものだ。枝豆が喜んで成長していたのではないことだけははっきりしている。

 子供たちも「喜んで成長」していない。いじめの構造は、いじめるものがいるからだというのは、短絡的な発想ではないか。なぜ苛めるのかの解明がいる。いじめの構造は、大人の世界というより社会の構造の中に包含している。人と人の関係の中に極度の競争や差別がある。競争で負けたものは「仕方がないんだ」と切り捨てている。

 品川区がいじめた子供を排除できることにするというが、そんなことをしたらもっと酷いことにならないだろうか。いま、苛めにあった子供は「苛められていない」と話すという。苛められても、そうでないということを言わせるまでの苛めになっている。そうでなく、相手にしてもらえる友達だと思い込んでいるとしたらこれも大変だ。今の子供たちは、枝豆よりも不幸だ。