2013年11月2日土曜日

山本太郎の園遊会「直訴」に、天皇を元首として政治利用をしている方が政治利用という批判はおかしい

 大日本帝国憲法のときは元首だった天皇は、日本国憲法では、「元首」であることを明確にしていない。憲法上、象徴という言葉を使って天皇を保全したのは、戦後の歴史が生み出したというのは説得力がある。天皇ができることは国事行為で制限列挙されている。これさえ、内閣の助言と承認のもとでなされるということで、政治行為は想定されていない。それは当たり前で、天皇の名のもとに戦争を遂行されていったのだから、反省をして体制を切り替えることが求められていた。
 
 こうした憲法上の扱いに、政治行為を求めるのは国会に議席を持つものが、やることかといえば、「別のこと考えても」と言うこともできる。「気持ちはわかるけど…」という話もあるけれども、ちょっぴりこの面倒なことを除いて、「開かれた天皇」に対して、申し述べることが政治行為として断定されるのかというと、いまのところその手紙の内容が政治行為を求めている内容なのかどうかという点が、マスコミの報道の中では見当たらない(自分だけかもしれないが)。「辞職しろ」「ときがときなら刑罰ものだ」のと騒ぐことばかりが、議席多数占有者から出されている。

 天皇はいらないというとストレートに言うと、なにを言っているのかと、それにとどまらないご意見を賜ることにもなりかねない。が、今の政治制度の中では、なくても間に合う存在ではある。「心のよりどころ」のような親密さも醸造してきたから、気持ちが入り込むこともあるとは思う。当分象徴でもいいと思うが、だったら元首ではない開かれた天皇が、もっとどんどん開かれてもと思う。

靖国神社を参拝しないとか、外来魚のブルーギルを日本に持ってきたのはよくなかったと話したとか、先日誕生日を迎えた皇后の五日市憲法の話は、ちょっと認識が改まった。「開かれた皇室」いいんじゃないかと。

園遊会に手紙を持っていくのが違法ではないが、もらった天皇は侍従に預けた。開封しないわけはないだろうが、闇に葬られるのか。これだけ騒がれたら、一定の対応をすることになるのか。天皇がどこかの場で「あの手紙はいまの福島の状況を訴えたもので、大変大切なことを示唆していました。関係者がなんとかその対応に努力されることを望んでおります」なんて言ったとしたら、もう一歩開かれた天皇にならないか。続けて「天皇は政治行為が許されておりませんから、それにお応えすることはできませんが、願いは同じと考えております」って話したら…いいね!


 「憲法改論議」が持ち出されて、先には天皇を象徴から格上げする考が浮上している。憲法順守で「戦争の道は未来永劫なし」ということは言うまでもないこと。