2014年8月26日火曜日

自然を邪険に扱うこころ

自然とのかかわりから人間は抜けられない。であるのに自然に対して冷たい仕打ちばかりが目立つ。人間集団の運営は、自然に対しての考慮も配慮も先送りしている。もっとありていに言えば、事業活動優先の「ものみな」有意義な資源としてみているところに原因があると言えるのではないだろうか。

農業でもコメ作りを大規模化させて淘汰し、日本の一つの県ほどの面積が減反として切り捨て誘導され、「耕作放棄地」とその名も主体的にしたかのような文言で切り捨てた。写真に撮る「棚田百選」でも、美なる田んぼはもはやオーナー制度の観光農園としてしか生き残れないところもある。これが文化として残っていくのだとあれば、あまりに皮相すぎないか。

以前にも書いたが、佐渡のトキを増殖させるために、ドジョウが田んぼに生息する環境に回帰させる、つまり田んぼの昔の姿の戻すことに金をかける。「特別」の資金(税)を投入して。これを素直に、自然への配慮という評価するわけにはいかない。自然の体系が守られることが必要だと、気が付いたことは良しとしても。

経済成長の美辞句のもとに、事業活動の有効なグッズ=自然としてしか扱ってこなかったこと、その影響が様々な分野で問題を生じ、指弾を浴びるのは当然だ。これに気付くべきだということは声を大にしなければならないことだと思う。一刻も早く今からどれだけのことができるかを考えなくてはならない。

自然を大切なものとて考える団体も少なくない。なのに、市町村や国の機関はどれだけの施策を持っているのかを思う時、期待の大きさとの隔離を思わないではいられない。「資源」としての活用という範囲しか見ていないという、これがネックとしてあるといえないか。沿岸海域の魚貝類はおしなべて養殖したものが幅を利かせる。そのことを全部否定するわけにはいかないが、それほど海が疲弊化していることだと、しかたがないことに終わらせていいのか。




もともと自然の力は壮大なものがある。気仙沼市の唐桑町は3年前の津波被害で大きな打撃を受けた。
漁業従事者が生き死をかけた復活を試みて、皮肉なこと津波で変化した海岸にアサリが繁殖しているのを見て、復活にかける決意をした。15メートルもの防潮堤を造ってしまったらそれさえもなくしてしまうと、建設不要と言っているとのことだ。

津波にあって、海底の改変がおきたところでも、アマモの繁殖がすすんでいるのだということも明らかになった。しかもアマモは湾を跨いで流れていって繁殖するということだ。神奈川県の水産試験場が、東京湾にアマモを増殖させる努力を続けているが、自然の力とはそもそも凄いものだ。これをほとんど失くしてきたのが自然への「もてなし」だった。東京湾の三番瀬でもアサリが繁殖している。湾のほとんどの浅瀬を埋め尽くして造成してしまった今、この残された貴重な干潟にアサリが息づいている。その稚貝はかつては東京産として地方から求められていた。自己再生が不可能になった今、日本の各地でもアサリは種苗生産としての道を残すだけになってしまった。