2022年6月25日土曜日

「平和の詩」がすばらしい

 沖縄戦没者追悼式で小学校二年の子供が朗読した「平和の詩」がすばらしい。

~せんそうがこわいからへいわをつかみたい ずっとポケットにいれてもっておく ぜったいおとさないように なくさないように わすれないように~

 平和をつかむために軍備を増やし、核兵器も置こうという主張。ちょっと待ってくれ、日本が踏んできた他国侵略の道をなかったことにして、「怖さ」利用するのは不届きなこと。ウクライナ惨状を目の当たりにして「絶対やってはいけないこと」と鉢巻を締めなおすのが普通とすべきなのではないか。

 いつまでも戦争をやめないロシアを見て思う。止めるときは「兵器」がなくなるときまでなのか?その前に「やめろ」というのが政治だと思うのに、欧米の協調にのるだけのことしかない日本。電車で乗客が困っている場面で、何人かが助けていてもまだ側で見ているだけ…。平和をつかむためのポケットはもちあわせない政治。兵器産業が潤いを待つ政治、やめて。


2022年6月19日日曜日

忘れてもいいようにと思うのが「ゴミ」を増やす?

 さあ朝だと、煩いマウスを外してスマホを見るとまだ5時半だった。また寝るほどでもないかとそのままツイッターを眺める。ツイッターを見て「なるほど」と思う記事を読む。それを残すのを仕事の一つにしている。忘れてもいいようにと考えて。忘れるのは高齢者の特権だと強弁しつつ、念のためついでに記録に残すことに努める。

 スマホとパソコンには、「メモ」をとる機能(アプリ)がたくさんある。なにかの仕事をするために必要不可欠な道具なのだ。四角いメモ帳、附箋的なもので、ちょっとした言葉を書き込んでおくのにとてもよい。我がスマホとパソコンはほとんどが同期されているから、「メモ」が残っていることは間違いない。新聞の切り抜きも記録として取り込んでいるから、自分ではスッキリ整理しているつもりでいる。

 とはいえ、どんどん増えてゆき、パソコンの記憶装置の中にはたくさんの「記録」が留まっている。だいたいその「記録」がどこに残されているのかも、時間が少し経つと忘れてしまう。テレビでよく放映される、「片付けができなくて部屋中だけなく家の外にもゴミのビニール袋を積み上げる」。それにほぼ近い。

煩わしいマウスを外したら快感。快感に感謝して毎日洗浄して干す




2022年6月12日日曜日

明日天気になーれ

 予報によると日曜だけは雨が降らないらしい。晴れマークではなく太陽がちょっとのぞく…。朝のところは予報があたっている。窓から入ってくる風がカーテンを揺らしているから、天気が変わるのかな。天気予報はスーパーコンピュータに物理法則に従って予測数値を出させ、予報士が修正するのが主流だというから、あくまでも人間が判断をする。

 下駄を放り上げてとはならないにしても、ある程度は自分が判断することになるのかな。これから出かける時間帯に雨が降るのかどうか、空模様を雲の動きくらいは見ているし、気温予測があっても窓を開けて、体感の結果で何を着て出かけるかを決める。少なくとも自己判断が最後にきめるとなると、これも「自己責任」となるのだろうか。予報に当たりはずれがあるのは、スーパーコンピュータに蓄積されているデータに不足があるのか、予報士の経験値を超えるなんらかの異常があるのか、気候変動、温暖化の影響が組み込まれているのか?などと、余計な心配事をしている朝。

気温低下で一度は枯れ、復活したものの今度はきれいに刈り取られた。それでも復活したフキ。

2022.04.06


2022.06.11


2022年6月7日火曜日

写真展終了して一息

 一息というより、「息切れ」風の幕。受付当番以外も7日間通い詰めて「入江ゼミ展」を無事に終えた。来観者は500人(修正600人)くらいにはなっただろうか。講師を入れて19人の写真を取り外して撤収しながら、これは一人ではとてもやり切れないことだとつくづく思った。2年間はWEBでの代替えだったから、やりがいを感じたことはもちろんあるけれども、疲れ果てたという「充実感」も残った。膝だけでなく股関節まで響いてきた。ここまでくることで、様々な「至らぬ点」と、ちょっぴり「良かった点」が浮かび上がるのは、見に来て下さった方々の反響によるもの。とりわけ大きな節目になって、これから先の糧にさせてもらえることがうれしい。疲労が頑張りに転嫁していけるかどうか、心配がないでもないけれども、ともかくいったんはほっとさせていただこう。

3日は突然の豪雨だった