2021年5月29日土曜日

雪駄は高かった?

 フローリングの家で重宝している雪駄は、裏がゴム状になっていて階段の上り下りで、スリッパより安全で重宝している。これが夏冬で「衣替え」になる。冬の間は畳状の表になっているものを使う。薄い先割れ靴下をはくと冷たくなくてよい。夏はビニール(ポリエステルかな)状の表になっているものを使う。

 旅に出たとき、たまにお土産屋に置いてあることがあるので買っておくのに、旅が減ったせいもあって、なくなってしまったので、少し先にある寂れた商店街で頑張っている下駄屋さんに買いに行くことにした。

 しばらく前は1000円でおつりがくるくらいの値段だったが、最近は1200円くらいになっている。お土産屋でも同じような値段だ。商店街の下駄屋さんは商売上手で、なるべく値段の張るものを勧める。今回も裏ゴムのものがなくて、どうしようかと思っていたら、柔らかなブラスチック状の底の雪駄を勧めた。仕方なく買うことにしたものの2000円もした。

 家で履くと底が固い分だけバタバタと音が出る。膝痛で妙な歩き方をするから余計だ。まだ家族から非難の言葉はないからいいが、うるさいと言われたら下駄屋さんのせいにしなくてはならない。こっちだって2000円もかけた痛い買い物をしたんだ。でも下駄屋のおばあさん、帰り際に雨がぱらついてきたら、ビニール傘を差しだして「返さないでいいよ」という。この傘の分を差し引くといくらか安くなったのかと、つまらない計算をした。



2021年5月25日火曜日

天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊

=この世で、自分ほど偉いものはいないとうぬぼれること。釈迦しゃかが生まれたときに七歩歩き、一方で天を指し、他方で地を指して唱えたという言葉と伝えられる。この世の中で自分より尊いものはいないという意味。▽「天上天下てんげ唯我独尊」の略。「唯我」はただ自分のみということ。「独尊」は自分ひとりが他の一切のものよりすぐれて尊いということ=

 釈迦についてどう考えるかをさておいて、独尊の「尊」は近寄りがたい崇高さと理解すると、端的に「一人尊い」となる。これが「尊」でなく「裁」となると「独裁」。こちらの方は現代進行形の言葉として、民主主義を求める海外での運動では、かのマスコミでも好んで(?)使われている。今の日本でも受け入れられそうに思うけど、やっぱり遠慮や忖度があるのだろう。

 しかし、そんな政府の態様は十分あると思うのに、受け入れられないと思っているのだろうか。五輪開催になにがなんでも突っ込むという現下、中止にしない「ぼったくり男爵」と痛快な批判を浴びせられても、「どうやってやるか」ということからブレない「日本の手配師」たちの行動は、戦前に似た国家総動員体制が敷かれているようにも見える。

 学校教育でオリパラを使った教育を入れ込み、小学生をオリンピックに動員して???アメリカはついに「日本に行くな」と旅行制限をかけた。もう、終わりの終わりではないのか。独裁と言われようと言われまいと、今のうちに幕引きができるかどうか。前回の東京オリンピックの時も、財政赤字を積み上げたこと忘れているのか。経済利益優先を目標とするオリンピック、「スポーツの品格」をこれ以上貶めることはない。

 東京都が、東京オリンピック・パラリンピックの観戦に小中学生ら81万人を「動員」し、拒否すれば「欠席扱い」になるーー?(430日)


2021年5月19日水曜日

今日はワクチン接種日(一回目)

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7日前発熱37.6℃

6日前解熱 元気

5日前仕事に行く

4日前友達とバーベキュー

3日前下痢

2日前のどかいがいが熱なし

1日前熱37度で受診PCR

本日コロナです。

よく聞くとそういえば味もあんまししません。翌日解熱し無症状でした、という経過がざらです。これがコロナの経過です。

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 テレビに出演している栃木の倉持先生のツイッターを、説明抜きで子供に送った。気をつけろという意味合いでのことだった。よく読めばわかるところ「かかったのか?」と折り返してLINEが届いた。読み返すと他人だとわかるところは「よく聞くと」とのフレーズしかない。「丁寧な説明」の欠けたらしい。

 今日は一回目のワクチン接種を受けに行くことになっている。ワクチンの安全性についての情報はほとんどないが、(政府の説明はほとんどない。安全性については周知するはいずじゃあないのか)報道されたものでは「死亡者39人」で、ほとんどが「情報不足等によりワクチンと症状名との因果関係が評価できないもの」、残りは「評価中」とのこと。

「第 58 回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応 検討部会―」資料

(アクセスして「リダイレクト」をクリックすると表示)

ーこんな報道もあった。

 厚生労働省の専門家部会の委員で、埼玉県立小児医療センターの岡明病院長は、接種後の死亡について「高齢者の死亡は一定の確率で起きるので、どのように評価して伝えていくかは非常にデリケートな問題だ」としたうえで「具合が悪いときに接種を受けると、状態が悪化するリスクなどがある。接種を焦らず、体調を優先して延期することなども検討してほしい」と述べました。

ーと、これも自己責任か。

 安全性についの様々な疑問があるのに、「さあやれ」ばかりのことで大丈夫なのだろうか。「評価できない」と「評価中」なので、ワクチン死亡者はいないことになっている??

2021年5月15日土曜日

中止した写真展のメンバーが亡くなった

 心痛む知らせがあった。24日から開催する予定だったメンバーの方が亡くなった。写真展のときに配布するパンフレットを編集していたのが先週だった。入稿前の点検時の最後にメールがあって、撮影した写真との関わりをキャプションで表すところ、より推敲された言葉で変更すると連絡があった。

 三日後のゼミのオンラインで、声が少し掠れていたので気がかりだったが、今日になって急な知らせを聞くことになった。作品のパンフレットを作る役割だったので、作った「初校」についてその「是非と修正」連絡を乞うメールを打ち連絡を待っていた。もうちょっと早くどうなのとは率直なところ思っていたことだった。(いろんな場合でそんなことがあり己もそうだけど)

 でもそればかりと断ずることはできないことだと、今回は反省させられた。写真展は中止をすると相談の結果で決断はしたけれども、「心残り」の部分がより大きくなった。会場OKの開催可能な条件があったのに、という思いを全部否定することが難しい。比べたくもないが五輪の場合が「どうやったらできるか」の物差しなのだから容易いが、それは危ういという以外ない。そんな判断にゆだねるほどの生易しい状況ではないと思えるので、やむを得ないことかとまたグルグルめぐりになる。



2021年5月13日木曜日

やむなく中止の写真展

 今月524日からの写真展開催についてオンラインで意見を出し合った。会場は使えることになっていたものの、昨年の写真展中止の際よりも変異株の感染状況が悪化などがあり、東京へ出てくるのは控えるなどの声が伝えられていることなど、全員一様に開催希望を望みながらも、中止を決断するという結論になった。

 2年続けて中止ということで、準備を進めてきたことが水の泡になるというのは残念でショックが大きい。それにつけても、新型コロナの感染検査を異常にしぶり、十分な補償もなかなか応じないでいながら、感染拡大をまねていていることは、政府の怠慢だと余計にむかっ腹が立つ。後手後手で言い訳ばかりして、それこそ感染拡大防止の「結果を出さず」に五輪だけはしっかりとやる意思を押し通すとは、政府の対応として許されない。来年は写真展ができるような「しっかりとした政府」ができているといいけど。




2021年5月10日月曜日

写真展開催できるかな

 「連休後半は…」と書き始めて、連休も何もないことを思い出した。長い間の癖がいまだ抜けない習慣。毎日が休みで、日々の変化は「今日は何のゴミだったかな」と頭を回転させることで、生きている実感も味わう。なにかやることがあることはいいことだと実際思う。ただ、置き場にもっていくだけのことがこんなに貴重だったとは思わなかった。で、世間の連休だった後半は、パソコンに遊んでもらったあと、「充実の日々」が続いた。

 写真展を今月24日からやることになっていたので、今の緊急事態宣言下で実施するかどうかの瀬戸際を迎えながら、展示会用のパンフレットの作製をする作業に取り組んだ。昨年やったことだし、己の危うさを自覚して手法を記録しておいたから、そう困難もなくその仕事を終えた。後、校正作業をオンラインとメールで連絡を取り合って完成までたどりついた。

 だいたい集中してものごとを運ぶのは、正直厄介さも伴うので出来上がって正直ほっとした。パソコンも自己流でずっとやってき、結構分かったような気分もありながら、本格的な編集に当たったのはこの仕事が初めてだった。いちいちソフトの動かし方の有りように感心しながら、ずいぶんと勉強になった。

 パンフレットはここまできて準備はできたものの、開催するかどうかの判断を迫られることになる。会場の芸術劇場は昨年と違って、貸し出すということなのだそうで、判断はこちらにゆだねられることになった。

写真は郵送までいくかどうかの案内ハガキ 




2021年5月4日火曜日

ノートパソコンと遊び、遊ばれの連休

 連休と言ってもずっと連休の日々だけど、その上にオタク暮らしが強要されて、たっぷりある暇でノートパソコンの設定を変えようと思った。パソコンの電源を入れるとWindowsのサインインでパスワードを入れることになっている。そのパスワードが長めなので、方法を変えてPINコードで短い文字を入力して、立ちあげるようにしてあった。パソコンは自宅以外で使うことはまずないので、セキュリティーの問題はまず心配ないが、半ば仕方なくやっているつもりだった。

 ただ、万々一熱が出て不幸にしてこの世との別れになる場合がないとは限らない。そのとき家族がパソコンを立ち上げて後始末をするなんてことがあるかな?と軽く思う。人に言えるような財産はないが、残したいことのいくつかはある。エンディングノートのファイルがパソコンに置いてある。(実はまだ書いてはいない。結構面倒なので時間がかかりそう。)エンディングノートはパソコンの中でなくともいいが、どこに置くのかがまた問題だ。断捨離候補が部屋のなかにちらばっているのに、みつけられるのだろうか心配だ。

 してみると「パソコン見て」という伝言だけ残せばなんとかなるかな?前置きは長くなるけど、だからノートパソコンの立ち上げは、なにをしなくとも使える状態がいいのかなと思った次第。

 で、設定を変えようと始めた結果が悪かった。失敗してどうやってもWindowsに入り込めなくなってしまった。そういうときはやりようがあるのだと、あとで教えてもらったのだけれど後の祭り。結局「再インストール」してみることになった。保存中のファイルはクラウド上にほとんどが置いてあるので、パソコンのなかにはたいしたものはなくて幸いだった。写真は再インストールして初期状態になったので、3年前からのWindowsがアップデートした更新ファイルを、ようやくし終えたところ。