2016年7月4日月曜日

「民主主義」の理解は

 民主主義について考えさせられる場面があった。イギリスのEU離脱の国民投票で、賛成が上回った結果になって、あとから生じていることをネタにした番組だった。国民投票のやり直しを求めるNET署名が3百数十万になったとのことで、このやりかたが民主主義に反するという主張だ。多数決により決まったことに異議をさしはさんで、ひっくりかえすというのは民主主義でないというものだ。

 国民の直接投票という手段で結論が出たことなのだから、ひっくり返すという方法はおかしいという主張は一理ある。だが、日本の憲法「改正」論議では、憲法9条をなくすか変えるために、「時代に合わせて変えてよいものもある」という一般論的な主張で、何をどう変えるかを隠したままにしておくという姑息な民主主義が、場合によっては堂々とまかり通ろうとしている。憲法全体で定まっていることは、未来永劫変えないということはなりたつ議論でないのは当たり前のことだ。

 国民的議論がされる場合はもちろん、何かの結論を求める場合も、判断しうる条件をすべて正確に情報提供されるべきことも民主主義にとって大切なことに違いない。そのうえでの論議がよりより結果を導くことになる。国民投票が終わってのち「そういう理解ではなかったよ」ということで、論議される民主主義は幅広いものという理解ができないものだろうか。

 すでに結論がでたこととされるよりは、どういう利益や効果があったのか、なくなったのか足りないものはなかったのかを見直すというのも、民主主義の形態であり切り、捨てられるべきものなのかどうか。

 日本の「安保法」の国会審議で、議事録を後日「挿入」されて採決決定したことになっているが、こういうことが許される日本の民主主義ってなんだと、だれでも思うことだろう。法律が決定事項であっても改廃はできるわけなので、「決定したもの」という説得は力を持たない。EC離脱国民投票の後日談を批判する筋合いではないように思う。