2019年7月21日日曜日

花の散り際はやっぱり寂しいものだ

 花の散り際とはそう目立たないものだという気がする。目立たないのは人の身勝手であって、見ていないという方が正解か。咲いた花も次のなにかの植物の時節のために席を譲るのだろう。うまい具合に入れ違って生命をつないでいく。

 手にかけられた花の盛りは、沢山の人に見せ場を作って謳歌のときを過ごす。そのときは自然界の中の一つとしての存在は否定されないものの、盛りを過ぎてしまえば終了のレッテルを張られて見向きもされなくなる。また来年のためのなにがしかの人手を与えられて、また翌年の準備行動につらつらと移っていく。

 人手によっていくのも一面花の命の営みとしてはわかるが、しょせん人工「化粧」を施されたものと思うと何か気の毒でもあり、もっと言えば人の勝手な介入ととれなくもない。