2011年8月21日日曜日

江戸時代を超えてないぞ

 我が釣りの会が、ヤマベつりやアユつりで度々楽しませてもらっている酒匂川は、江戸時代の1707(宝永四)年に富士山の「宝永噴火」で火山礫や火山灰による甚大な被害を受けていた。

 近世の江戸近郊で起きた大規模噴火だった。振動と灰は江戸まで届いたということだ。

丹沢山地、足柄山地の火山礫・火山灰によって噴火の翌年、豪雨による水害が発生して被災に輪をかけた。その後も治水工事の一方で水害がたびたび発生して、使者も出た。

 農地が火山灰で覆われて、作物ができなくなったので、餓死者も出た。動きの悪い小田原藩に、領民たちが幕府に訴願行動をおこすことでようやく食料支給に動き出したとか。


 幕府も動き出し、直轄地にすることを決めた。そしておよそ80年かかって、復興を手がけて、江戸川幕府の直轄地として管理していた。

中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/14/shiryou4.pdf

 1708(宝永五)年2 月に幕府直轄領となっていた相模・駿河両国のうち、およそ半分が復旧を遂げたとみなされ、1716(正徳六)年に小田原藩に戻されました。その後、1747( 延享えんきょう四)年になって、駿東郡や足柄平野の一部を除いた多くの地域が小田原藩に復帰し、1782(天明てんめい二)年には駿東郡の一部を除く大半がそれ除いた多くの地域が小田原藩に復帰し、1782(天明てんめい二)年には駿東郡の一部を除く大半がそれに続きました。そして、1785(天明五)年から翌年にかけて、復興の遅れていた大お御神村(現在の静岡県小山おやま町の一部、須走の東)を除いたすべての地域が小田原藩に返った。
 

 水没した土地や田畑はどうする?復興の責任を考えているのか?被災地の要望に応じた体制になっていないのではないか。国の責任でということが薄い。いまは江戸時代より下か。