2013年7月20日土曜日

クーデターには戒厳令、民主的変革なら…。

 日本の政治を変えていくのに、その変革についてさす言葉が見当たらない。

「クーデター」についてウィキペディアでは
社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦
朝日新聞掲載「キーワード」 クーデターの用語解説は、 フランス語で、「国への一撃」の意味。軍などが武力で権力を奪取するような政変を指す
となっている。

 革命、反乱、テロリズム、内戦のいずれにしても日本では「負のイメージ」が先に立つ。「フランス革命」とは違和感をそう感じないが、日本でと言うと国政を変革する場合の表現が存在しないことになっている。これはおかしいというより困ったことだ。
 
 選挙戦の最終日で、各党必死の「戦い」をしている。なのにこの静けさはなんだ。憲法に保障する表現の自由を固く制限した選挙、様々な人の意見を闇の中で二大政党に収斂してしまう選挙制度で生まれてくる議会は、捻れてくるのは当たり前だ。暗闇のような選挙で、政治の未来を考え合い、議論を戦わせる機会になっていない。

 提供されるべき情報が少なく、例えば選挙演説で原発や憲法改正問題に口を閉ざしても、マスコミもさしたる問い詰めもしない。こんなことだから、投票率は「盛り下がる」ことにつながる。法律を「駆使」してまるで戒厳令をしいているかのようだ。

 政治を変えたい、よくしたいと願うのは、どこの国でも当然あることだ。戒厳令は日本にない(憲法にない=有事法制に同質のものありという説あり)が、変革を求める言葉もフツーに流通していない。もっとも政治の「変革」の言葉さえ市民権があまりない。

 原発、雇用、税、年金、医療、TPP参加…をめぐって、日本の将来像と立つべき位置について、関与しなくてはならないし、すべきだと思う。眠っていてはいけない。民主的変革という言葉はまだ、フツーに流通していないが、革命・テロ・反乱・内戦でない言葉としてこの際流通させてもいいのではないか。これなら戒厳令の必要はない。