2014年10月24日金曜日

本当は重い政治が軽くなる

 消費税増税、特定機密の関連法、原発再稼働など日常生活に重い政治課題が山積しているのに、団扇や政治資金の使い込み、委員会での馴れ合い運営、果てはSMショーへの出費まで、なんと「下世話」な問題が次々とでてくる。まったくあきれ果てたことだ。
 団扇問題は、国会の場でとてもわかりやすく追及されたから、スポーツ新聞む含めて乗りやすい報道になった。「国会の場で政策問題でやらず」にそういうことで取り上げるのはという批判も当然でてきた。当たっていると思ったが、国会のシリアスな場面で、テレビのワイドショウのネタに大うけするような内容で、その意味では政治が身近になっていい。出てくる「不幸」は回りまわって有権者であるものの責任にも当てはまるから、外野席から見ている政治ということでは、いつまでたっても変わらない。国会審議は政策上の熱い論戦は違いがあってのことで、たとえば増税の問題でも同様の結論をもっているなら、張り合うことのならないから、トーンは下がるし枝葉のはじきあいで終わってしまう。とすれば、やっぱりワイドショウ向けの話になってしまうのか。

 しかし、新閣僚の資質を調べる場合とそうでない場合が政権によって違うとの、コメンテーターの話には驚いた。驚いたよりはそうなのかという変な納得をした。資質の問題より、50人以上もいる「閣僚資格者」の扱いのほうが忙しいということなのだろう。この体質はいまに始まったことではない。これまで何回も繰り返していることなのだから本来なら、マスコミもせめて「いい加減にしろ」というトーンで扱ってもらいたいと思う。新閣僚がでてきたら、その活動や資質について調べて、問題がないのかどうかを発表したらいい。皮肉に言えば、問題を起こしてくれたほうが、ネタとして描きやすいということかもしれない。その場合だけマスコミに貢献しているとも言える。

 小渕氏の発言で「政治家として一から出直す」という言葉があった。出直すのは自由だが、今は圧倒的に強い地盤をもって、悠々と議員になれるという立場だから、就職先として議員をやるという選択が有力なのだろうが、現行法制化で違法に立ち入ったという認識もさることながら、問題の全容解明ととるべき責任をさておいて、出直すとかいう決意を言う時ではないだろう。この類の人たちは「みそぎ」で再生可能な立ち合場にある。非正規従業者が突然首を切られるという身分などは到底考えられないだろう。会社都合というだけでいいのだから、そこから新たに職場を求めるの大変さとは比較できないほどの相違がある。
 

 小選挙区制が生み出す結果とみることもできる。制度が定着をして、優位な一人の選択に集中することになっていく。政策の選択が一本化に向かって、それしか自分の票が生かされなくなるから、無言の圧力となる。しかも投票する結果のむなしさで投票行動が少なくなっていく。こうなれば、立候補者の資質や行動に問題があっても、そこは問題として浮上しないし問われない。投票による民意がかき消される一方で、彼の再生産の道はできあがっているという図式だ。だから、きれいに一度引っ込むという筋書きが描かれるのだろう。ひところ「秘書が…秘書が…」という責任逃れのセンテンスがはやり言葉のように使われた。「全く私が知らないことで…びっくりした」などというのも同じこと、責任はやった人にあると言わんばかりの無責任さは感じる。そのことをもって責任と罪が軽くなるわけではない。「政治家」ですから。