2017年5月19日金曜日

老老と言いたくはない「追い追い介護」

 ひ弱にこの先のことを小声でつぶやく親父。金の管理がうまくはできなくなったせいだろうか、金が出ていかないように心配しているらしい。言葉を聞いていると執着しているのがわかる。言われているところの症状には見えるのだが、身内の関係であることで「そうかそうか」と肯定し続けるのは、確信的に自覚がみえる部分があるだけ簡単にいかない。

 会話をしようとするときには理解ができる言葉と大きさがないと成り立たない。ちょっとした意思の確認でさえも、3回も大きな声でないと伝わらなかったりする。しかしわかってもらわないと困る時には、これまでのやり取りの結果から、こちらの気持ちの置き所も素直にならない。

 仕方がないと面倒になり、そのうえでどうしたらいいのかと折り合いを探し出すのも、こちらの仕事になる。親父はなんでもきちんとこなす、几帳面にやるそれも器用にこなすという力をもって生き抜いてきた。その自負があるのはわかってきた。できなくなるのは認めがたいことなのだろう。でも終局にあたってどう軟着陸することが必要なのだろう。

 いやそれは他人事でなくて、自分の長くはない行く末にもあたること。だから自分ならこうすると、世間での話は通じるにしても自分の親は…と他人後にして置く以外に、いまのところ説教が通じるわけでもない。これで頭脳がグルグルまわりをしてなかなか出口をみつけられない。「脳細胞の老化度テスト」が古い資料の中にあったので、少しだけ甘めにテストをしてみたら、4945歳だった。まだ、若造ということか。