2021年12月10日金曜日

寄り道も終わって帰路へ、「絵」にはならないかもの写真

  コロナ下の落ち着きを見計らって、しばらくぶり出かけた旅もあっという間に終わった。終わってみれば短いのはいつものことなので、いつもとの違いをカメラに収められるのが何よりの記録になる。シャッターは何回押しただろうか数えてはいないが、気の向くままに秋の紅葉に出会えて、写真が撮れたことで、一昨年からの留飲を下げた思いはある。写真を愛でつつ秋の紅葉が撮影できるのは、何よりなのはもちろんのこと、紅葉の終焉にむかうあたりの景色も捨てたものではないと思う。とはいえ「写真」として成り立つのかどうかはわからない。ただ間違いなく、目に映る寂しさも表情ではあるし、枯れ枝の先の一枚の葉が落ちないでいるなどというのは、絵になると思うのだが難しいだろうか。

 でも、その写真が共感得るということになるになるのは、難しいだろうかな。「枯れ葉」など見せられたら、怒る気持ちも想像できないわけではない。人間なら生まれた時からこの世を去るまで、「生きている意味」を実感させられる。人間だけが大切なわけだから、生きているものすべてを一目おく人間の余裕を持ちたいものだと思う。人間がいくつで亡くなるかが問題でなく、それ以前の枯れ葉の一枚であったとしても、生きているもののガンバリっていう感じを表象させて、ちょっといいんじゃないのかな。