2013年3月20日水曜日

NHKを退職した堀潤さん(アナウンサー)の勇気に共感の拍手


 掘潤さんはNHKのアナウンサーだった。昨年3月末に番組(「Bizスポ」)を降りたことを機に、NHK公式のツイッターアカウントを閉鎖したことで、話題になっていた。米カルフォルニア大学に客員研究員として留学、今年の4月からNHKに復職、「今日の料理」を担当することになっていた。が、原発の報道についてNHKの方針(原発報道)と違う発言を公の場ではするなとの圧力で、事実上の退職に追い込まれた。
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310日、11日の堀さんのツイート
 震災から2年。原発事故発生のあの日私たちNHKSPEEDIの存在を知りながら「精度の信頼性に欠ける」とした文部科学省の方針に沿って、自らデータを報道することを取りやめた。国民の生命、財産を守る公共放送の役割を果たさなかった。私たちの不作為を徹底的に反省し謝罪しなければならない。

 パニックを抑え社会の均衡を保つための判断であったとしても、統制された情報によって福島県をはじめとした近隣住民の皆さんへ長年に渡る不安を与えた事実を正面から受け止め、償いを続けそれだけに市民に寄り添った報道を徹底しなければいけない。僕は頭を下げながら一生この原発事故の取材を続ける。

 自らあの日ニューススタジオにいながらそうした事実をきちんと伝えられなかったことに対し、心から謝罪します。福島の皆さん。取材でそれまで沢山お世話になっていたにも関わらず、役にたてなくて本当に申し訳ありませんでした。

 反原発だと思想的にレッテルを貼る人がいますが僕はそうは思いません。取材をすればするほど原発の安全対策が不十分であることがわかります。事故が起きた時の交通インフラや避難誘導の仕組みも今は不十分です。徹底的にこの問題と向き合い課題解決に知恵を絞らなければ世界の何処かでまた犠牲出ます。

 僕がUCLAで作った映画が局内で大問題になり、ロスで米国市民の皆さんが企画した上映会も中止に追い込まれました。「反原発と言われるものは困る」と指摘を受けましたが、事故が起きたことによる不条理な現状を描いているに過ぎません。市民が共有し未来に活かさなくてはならないものです。

 米国市民からは突然の上映中止の通達に「日本ではこれが日常なのか?」と怒りを通り越して驚き理解ができないという声が上がっています。僕が学生の時に研究し太平洋戦争下の状況と本質は変わりません。公共メディアは誰のものか?知る権利を有する市民のものです。表現の自由を有する市民のものです。
メディアに関わる一人一人がそれらの権利を常に最優先に掲げ、発信に努めなければなりません。あの日犠牲になり、そして今も情報が届かなかったことで不安と向き合う日々を過ごしている皆さんのことを想い。亡くなった方々への哀悼の意を示し、黙祷を捧げます。

 僕らアナウンサーに「個人では色々思いはあるだろうけど、公の場では意見を言わないように」と局は求めます。

 「皆様に報告です。本日、退職届を出しました。先週米国から帰国後、春からの担当番組は全てキャンセルだと告げられ、さらに懲戒処分の検討が始まっていたので、家族とも相談し、先手を打って退職する道を選びました。NHKに残って頑張って!という声をたくさん頂きましたが、政界、産業界をバックにした会長筋からの圧力は強く、闘いきれませんでした。しかし、本当の発信はこれからです。今も、不安の渦中にいる一人一人の皆さんのために、取材をつづけ、メッセージを投げかけていきます。皆さんの期待に応えられず申し訳ない思いでいっぱいですが、これからドライブをかけて参りますので今後ともよろしくお願い致します!」
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蜘蛛の巣おばさんの疑問箱」と「能村聡さんFacebook」の記事を転用させていただきました。

釣りの会の民主的運営


 Facebookからブログのネタを採ろうと思ったら、うまいネタがつかめなかった。夕食が済んでから片づけをして、釣りの会の会議に出かけた。遅くなってすでに始まっていて、今月と来月の行事についてと、一か月の間の諸行動の報告を順番にこなしていた。

 いつも思うのだが、自分も含めて、民主的とか民主主義とかと言うものが、はたして身についているのかとよく思う。釣りの会議とて、民主主義的運営で進められるべきであり、進め方の技法が見につかないと、話し合うべき事柄について、いったりきたりして、まえになかなか進まないことがよくある。たかが、趣味の会なんだから、多少の難しいことは追求せずに、言いたいことを言うというのも、否定されるべきでないと思う。

 だが、何年同じことを繰り返しても、同様の時間がかかるのがなんとも妙だ。どうしてなのかと考えるに、やっぱり民主主義の技法というかやり方が、身ついていないのではないかという気がしている。社会生活の上では、職場では「上意下達」が当たり前だ。一番良い結論を求めて意見を交換することは、社会の在り様になじんでいない。

 いや逆さまで、良かろうと思う事柄も、さる有力者の意見で曲げられるということがままある。だいたい「民主主義」というワード事態、日常使う言葉でないのだから。そうなると、やっぱりある団体やグループの同一舞台では、交通整理にあたる議長や司会が重要な働きをすることになる。そうであっても、意見を出す方がかみ合わせる内容を、キチンと表明するということも大切になってくる。

 枝葉末節の話だが、今日は会議の開始時間についての議題があった。630開始がいいのかというテーマだった。職を持っている人は少ないが、そこをポイントにすると早いので、やっぱりこれまでどおり、745開始という結論にはなった。結論は悪くはないが、これは何年も前に同じ論議をして決めたことだった。こういいうことでも、記憶にないかあるいは、忘れていているならもう一度確認するというのも民主主義のうちなのだ。そう思う方が、議会でもないフツーの団体の民主主義だとするほうが、穏やかなことなのかもしれない。