2020年6月30日火曜日

過度な動きは年寄りの冷や水

 5月の「加重山歩き」の受難のせいなのだろうか、それとも急な巣ごもりストレッチがきっかけになったのか。両方に原因でありそうな腰の痛みだった。6月の始めから、寝返りが大変なほど腰が痛んで、いよいよ医者に行かなくてはならないかという感じがしていた。この年になったのだから「ころ合い」かともいえるし、老化の症状がでてくるのも仕方がないことだとは思う。もうすこし痛みが引かなければ、医者に行こうかと考えていたところ、2週間ほどもたってから、不思議なことに少しずつ痛みが軽くなり楽になってきた。いずれにしても動きを控えていたのがよくて治ったものだろう。回復するだけまだ若さが残っていたと思うと、ちょっとうれしいできごとだった。

 腰をかばい乍ら寝転がって、プミアムカフェ(NHK)「世界レッキング紀行」再放送(20年前の放送)で、~オーストリアアルプス~幻の花エーデルワイスを探して~ (斉藤由貴)を見た。「斉藤由貴」は山登りなど経験したことがなかったから、エーデルワイスを見つけるまでに大変な苦労をしたという内容だった。登山に興味がむいていなかったところは、重なるところがあったが、若いときに山登りの楽しさを経験できていたら、山に対する親しみも膨らんだろうかと、今さらしようもないことを考えた。

            エーデルワイス



 ~ハイビジョンスペシャル ヨーロッパ アルプス トレッキング紀行 幻の花エーデルワイスを探して~オーストリア アルプス~(初回放送:2000年)一口にアルプスと言っても、オーストリア、ドイツ、フランス、スイスなど、それぞれの国で違った表情がある。オーストリアのチロル地方を女優の斉藤由貴が訪れ、オーストリアの国花であり、幻の花とも呼ばれる可憐な白い花、エーデルワイスを探しながらアルプスの道をたどる。~NHK


2020年6月28日日曜日

腰の痛みがやっと和らいできた

 渓流釣りはもうやらなくなったけれど、誘われるとついその気になって出かける。「断捨離」で釣り道具もだいぶ始末した(つもり)のに、渓流つりにかかるものは残してあるから、行くことにもなるわけだ。大した距離を歩くわけではなかったが、日ごろのグータラウォーキング程度では、体力が落ちていく分を賄えないことはわかってもいた。案の定足腰膝が悲鳴を上げて、これはもう無理だなと反省を迫られることになった。

 それなのにまだ回復半ばでタケノコ狩りにと声がかかった。歩けないよと言いつつ、「自粛生活」に押し込められていることにストレス、というより癪に障る感があって、国がロクに対応しないで自粛をしろと、自己責任ばかりを強調することへのいらだたしさもあり、3人目のメンバーになることにした。竹藪に入ってタケノコを採ったのはもう20年以上も前だったろうか。それから2回目の「至難」だった。同行の二人は十分な経験があって、よくもそれだけ…というほどの収穫だった。それも太くて立派なものを、袋一杯にそろえてきて驚くばかりだった。足腰膝の病弱者としては、藪の中に入っても頑張りが利かなくて、入ってはすぐ道に戻り、入り易そうな場所でまた入るという半身のスタイルなのだから、採れないのは当然だ。

 早めに上がって待ち合わせの場所で写真を「とる」のが収穫の一部にはなった。そのヒメタケノコは味も香りも良くて、後日取り寄せたものよりも上だった。










2020年6月23日火曜日

ヤマヒルに血を吸われた…

 全くの無防備だった。ヤマヒルに喰いつかれるなんて考えたこともなかった。これまで何回も渓流魚を釣るために山に入ったことがあったのに、一度も経験したことがなかった。カモシカの蹄に入り込んで移動するらしく、昔渓流釣りの本で紹介されたときは、特殊なところでとのことだったので、認識のかなたにあったままそんなところへは行かないと高をくくっていた。

 栃木県の「水源地」で写真を撮ろうということで、山道を少し登ってから川に下って歩いた。ちゃんと山道がはっきりしているところだった。確かにうっそうとした森で、雨が降った後でもあり、湿気があってぬかるみもあった。歩きながら撮影のポイントに気を取られて、立ち止まったことも数多くあった。二時間ほどだったか3人で歩き回って、その水源地エリアからで出た。

 車で少し移動し、湧き水を汲みに行ったところで、2人が足首の上あたりが血だらけになっているのに気が付ついた。あわてて取り払ったものの、何も感じないとのことで、ヒルのたいした芸当に驚いた。敵は意外と動きが早くて、「飛びつく」という感覚が言われるほどらしい。

 友人の別荘についてから、何げなく自分の足を見ると、なんと靴下の中が血だらけ!車の中でやられた。尺取り虫のように動き回るが、くっついて血を吸い始めても何も感じさせないヤツなんて、トンデモないやつだ。ちょうどFacebookの「渓流つり」のページで、ヤマヒルとダニの話が書いてあり、ヤマヒルの生息範囲も相当あるとのことがわかった。登山でもところによっては備えをしていかないと、やられることがあるらしい。喰いついたヒルはどこに行ったか不明だった。















2020年6月20日土曜日

ご近所界隈、自粛の街

 「コロナ禍」で巣ごもり生活を強いられる、これまで体験したことのない妙な生活から、抜け出したいし、写真の目から言ったら記録になりそうな状況を覗きたい。との思いが鬱々と湧いてウォーキングがてら近所を回って歩く。「解除前」の時だったから、あたりまえながら人けがなく、あっても行き交う人が少ない街は、なにかゆったりとした様子で、これまでの日常のようなザワザワしたものが感じられず、ドラマの田舎暮らしかヨーロッパの国にいるかのようだった。

 そこに見えるものは限れたものにならざるを得ないにしても、あまりにもお粗末な政治の動向や困難な生活を想像することはできそうだ。ただ、もっとあるだろうものに接近することができたかどうかは、やっぱり腕前との関係かも知れない。












2020年6月14日日曜日

少しずつもとのように動き始めるが、気分の持ち様が付いていくか

 いままでやっていた物事が、突如として止められてしまった。なくなってしまったことで、片付けだとか読書だとかこの際に、積んであったものを整理するという、珍しくも積極的な生活をやった。やったことはよかったが、Aを少し動かすとBに取り組み、BからまたすぐにCに移っていく。高齢者の生活態様がモロにでているのも可笑しい。たまったテレビ録画は、記録時間がなしに等しかったものが残11時間となり、新しい録画で溜まっていく時間を超えて減らせたのは、新型コロナのおかげだ。

 ぼちぼちもとの生活再開の動きが出てきて、予定表への書き込みも再開となった。そしたらこの度はなぜかだんだんおっくうな感じが出てきてしまった。他から強制されない、何もしない生活とはそれなりに良さもあるのだ。右のものを移すのも掛け声がいるような具合になったのだから、もう周回遅れでもいいからゆっくりしたい。そんな気分がフワッと現れ出てくる。

 でも年寄りになったら「動かない」のは褒められたことでない。まだ動ければまだ健康人の部類なのだろうから、ぜいたくを言っちゃいけない。しかし、「コロナ前」に戻すには、掛け声どころでは元に戻りそうもないない。自粛生活で得したことは多々あり、これまでの日常で「棚」に積むだけ積んだ「ゴミ近」を埃が経たないようにそっと下ろして、どう始末してくれようかとあり余る時間を使えた。有効に使えたのはよかったが、あんまり「切れよく」と言うわけでもなかった。でもまあ、普段ハタキをかけていなかったものに、パタパタとかけて塵を追い出せたのは精神の上でもよかった。ほかに何かいいことがあったのか?考えるほどのこともない。せいぜいそんなものだ。

梅雨の予兆、紫陽花が近所でも賑やかに咲き始めた






2020年6月9日火曜日

東京アラートと満月の取り合わせ

 起きしなに腰が痛む。昨日もそうだった。ウォーキングはしなかったからストレッチのせいかな。おまけに膝の内側を例の虫(なんだろう?)がまた噛んだらしくて、痒みがある。ぼつぼつと膨らんでいる。朝シャンをして体も洗いさっぱりする。土曜日は朝食時間は遅いので、ロールパンを一個もちだしてホットコーヒーを入れる。日記書き始めの「起きしな」のことばが、予測候補にでなくてIMEで単語登録。単語登録したのは久しぶりだ。昨夜、「東京アラートのライトアップ」と、ついでに「月」の写真を撮ったので、投稿サイトに載せることにした。

 ついでに撮ったほうの「月」は、偶然満月にあたっていて「ストロベリームーン」と称されて、アメリカの先住民が使っていたものだとのこと。

Facebook投稿

昨夜は満月、「ストロベリームーン」とはアメリカの先住民が使ったそう。各月の満月に動植物や季節のイベントなどに着けたとのこと。方や「東京アラート」、横文字の好きなお方の造語。和風に訳すと「赤いきつね」かな。緑のタヌキからの転進。



2020年6月4日木曜日

ウィルスとの闘いよりは共存になるのか

 大都会に人影が少なくなる光景は、寂しいというよりもさっぱりとしてよう映る。年末年始以外はほとんど感じたことはない。このさっぱり感を良いことと言い切るわけにはいかないが、道路や繁華街や駅周辺は、言わばヨーロッパ風のゆったとした時間の流れが支配しているように見える。食事でも買い物でも生活にかかわる必需品を手に入れる活動、サービスを提供する側もされる側も、自粛期間中はほぼ「固着」している。いま使える金を持っていたしても、人同士が近づいてはならぬと自粛させる側が叫ぶし、感染はお前さんたちの責任にかかっているのだよと、言葉を重ねられるので、「自粛」行動の規範に沿わざるを得ない。

 家族や親せきや仲間であれば、励ましあうところなのに「自粛警察」まで誕生して、監視行動をするようになる。人間社会のなんなのだろうこれは。この瞬間、田舎暮らしであれば、畑に行けば少しくらいの野菜が獲れ、密にもそれほど気をつかわずに生活が成り立つこともあるだろう。

 感染者が目立つのは、目下検査の数は問題があるけれども、都市部に集中している。生きていくため、食べるための稼ぎ場所と、細かな分業でささえあっているから、躓くとすぐに影響をうけるのは都市部だ。新型コロナは人間社会が作り上げた弱点をついて「繁栄、拡張」を狙っているわけだ。敵との闘いというセリフもでているが、「経済重視」の名をかりて活動再開に踏み込んでも、だれもが考えるように次の感染者増の山がくることは間違いないだろう。それが何回かあるとすれば、闘って撲滅ということにはならず、実態としての共存ということになっていくのだろう。ほかのウィルスと同じ様に。

 だいたい、閉じこもっていたウィルスをかき回して引っ張り出したのは、われわれの社会の方だ。ウィルス以外の生物にも、どれだけの傍若無人な毒矢を放ってきたことか、今になって「持続可能な」などという言葉も、ほとんど虚しく響いて聞こえる。












2020年6月2日火曜日

自粛の街が、さて6月はどうなることか。

 持続化給付金の支給769億円がまた、「お友達」を介して動いているとか。マスクの件にしても怪しげな税金の流れが表ざたになっている。モリカケの件も特定の知り合いに、特別の手立てで「稼がせる」ということが、常道なのだと考えればつじつまが合ってくる。政府の新型コロナ対策とは、感染拡大の防止はさておいて「経済」対策が先行してより重点になっている。経済と言っても中小の事業に対しては「借金」を増やす程度の手当てで、大企業が雇用調整(首切り)しようが非正規雇用者が職を失おうが、有効な手立ては見えない。ようやくの「しぶしぶ10万円支給」もいまだ届かない状態で、日本の政治の悲哀をいやというほど感じさせる。

こんな状況で、これから先の感染拡大のヤマに、どれだけの対策が期待できるかを想うと、ずれたマスクの顔を見るだけで気分が悪くなる。

新宿の街