2017年1月20日金曜日

善福寺川を眺めて総括的に思った

 善福寺川、神田川に限らないがこの川沿いには桜の木が目立つ。老木が目立ってきており、川の流れに乗り出して毎年春を楽しませている。ところによっては側道を占領してまで、生き延びている。いつの日かそれが耐えられなくなったら、切られてしまう運命にあるのだろうか。がんばれ桜!

 杉並区から中野区にかけての間でも、河岸の仕様が異なっていると今回思った。あえて言えば、都心に近づくにしたがって川としての性格を変えてしまって、単に水を流す場所として切り捨てられているような感じがした。護岸の造成の時期が異なっているし、造成工事区域の設計思想に一貫性をもたない発想が存在したのだと考えられる。少なくとも善福寺川は一級河川なのだから、管理責任は国にあるといえる。国の責任を災害対策の造成工事だけにしておいていいものかは問い直されていいのではないか。

 都市部においては、川のあり方が再認識されてきているところはまだ数えるほどだ。オリンピックの公共工事は、あれこれと数千、数百億円が「動き」回る。オリンピックなればこその成果が、生活のどこに充実感をもたらしてくれるのだろうか?あえていうなら、川と人との親和性を重んじた川の作りというのがあるのだし、公共工事がそういう方面に投入されれば、「幸せ感」は増すはずだろうと、対立させて言いたくなってくる。

 川との生活と遊びは、人間の暮らしに大いに影響してきた。神田川の「カミソリ護岸」で落下してけがをした人は、聞いただけで二人いる。流れ沿いに歩道があったなら、落ちて大けがをすることはないだろう。その発想での造り方を、今回周ったところで一部見ることができた。川と人の暮らしは対立関係ではないだろう。