2015年12月3日木曜日

「共に生きるのは」の範疇を考えて

 「共に生きる」ことは人間社会(あえて自然と区分する意味で)のこととして考えることが一般的なのかもしれません。そうなら人類の共生ということになるのでしょうか?共生は生き物全体の有様として、どこにもあることだと考えることができますから、「共に生きる」のは人の社会に限らないことのように思えます。

 ちょうど、地球温暖化の問題でCOP21が開催されます。このおり気候変動を巡って議論が高まっています。地球温暖化の状況はそれ自体から紛争を生み出すこと(シリアの干ばつ)や、エルニーニョ現象の時には内戦がおこる可能性は二倍になるとう説も出されています。(「気候変動が紛争を増大させる」世界11月号)アメリカのホワイトハウスのHPで「温暖化は、特に子供、老人、病人、低所得者、そしていくつかの有色人種のコミュニティに属するような脆弱な人々に大きな被害を与える」とハリケーン・カトリーナの被害者を分析(同12月号)して、警鐘を鳴らしています。気候変動こそ最大の安全保障であるとの主張も出されています(エマニュエル・パストリッチ「同12月号」)。

 これらは雑誌「世界」のテーマが温暖化を取り上げているので、ここからの引き合いですが、「戦争は偉大なる汚染です。温暖化で地球が滅びるというてるときに、もう戦争なんてする余裕はないんです。 米谷ふみ子」(同11月号)も含蓄ある言葉として感心しました。

戦争法をめぐって、目の前にある大きなテーマは流行語大賞にも選ばれる状況ですが、温暖化の問題は環境破壊への対策=自然との共生をクローズアップさせているように思います。

 環境破壊は、高度成長期にとりわけ大問題になって以後「公害反対運動」がきっかけで、企業責任が問われることになり、改善の方向はでてきました。いまや、中国の大気汚染を「笑う」までになりました。しかし問題は、経済成長政策によって日本中の環境破壊が引き続いてすすめられたことです。海と言わず川と言わず、山と言わず再開発に貢献させてきたのですから、環境改変は日常茶飯事ごとのように仕向けられてしまいました。佐渡のトキ繁殖のために、田んぼに「水田魚道」を設置して、ドジョウを育てる、川辺川の荒瀬ダムを壊してもとの川に戻すなど、ごくごく一部には自然回帰の手が打たれるのみで、400キロの防潮堤のように地元の意向には耳を傾けることのない基本的な構えで、それこそ「自然との共生」が損なわれることがすすめられています。

 経済の成長に気を取られて失っているものがとても大きいとことは言うまでことです。都市開発でさえそうですが、日本の「もの」の創造は破壊から始まっている、あるいは破壊を伴っています。で、その延長線上に「戦争」という最大の破壊行為が待っていると思うのです。かつて東京改造論がぶちあげられたとき、「地震待望論」まで考えているということが言われていました。阪神淡路大震災のときは、これ幸いと市民の意向を無視した都市建設がねらわれました。「破壊」は最大の市場になり、しかも開発参加者には取り壊し費用のない、低廉な土地取得ですから、願ったりの事態という頭になるのでしょう。どこかの国が破壊されることも、金儲けで行けばOKなわけですから、人類最後の最悪の選択へと落とし込められているわけです。

 共生は人と人との関係のみならず、人も含めた自然界全体を視野に入れることが合理的ではないのかと思います。自然は物を言わず、黙ってリバウンドを仕掛けてくれます。黙っている部分を人類の側が思いやり、変わって手を打つ必要に迫られている時だと感じます。埋め立てで失った自然を取り戻すために、千葉県検見川の人工海浜に入れていた砂は、何べんも潮流に流されてついに断念せざるを得なくなり、お台場海浜公園は大腸菌対策のためにカキ礁を使うなど、「海の神」がいればきっと笑われているに違いないことを、我が社会が繰り返しているわけです。冷静な知見も人間が持っている能力なのですから、これを活かしていきたいものと、恐れながら考えたりしています。