2017年10月27日金曜日

「排除」論の重み

 あいつには「知らせないでおこう」と、LINEのグループから排除されて、いじめの対象にされて自殺してしまった若者が何人もいた。それにしても、希望の党の代表の「排除する」と言ったのは、その後の事態を見てきつい言葉だったと、言葉尻をとらえて論評するメディアは、それをネタにして構成するショーとしては皮相すぎないか。

 その言葉で影響が出たということを否定はしないが、少々斜めの方角からの追及で、今に至るまでその発生の責任を「拡大」させてネタにするというのは、浅い話に見えて仕方がない。それは自民党の「攻撃」扱いによるものにも思える。

 「排除」とはこの社会で、国と個人との関係で深い問題だと考えられる。教育の中だって競争と言えば聞こえはいいが、一部が選抜された処遇であり、あとは結局「排除される人」の扱となる。社会に出て就職してからは、もっとも成果競争の名のもとに「格差」が当然のごとく押し付けられ横行する。結果として競争に負けたものは、敗者として「不幸」を容認することを強制される。

 そこでも一部の人とその他の格差が企業のあり様として存在する。果ては職場から人員整理=「排除」となる。それ以降はどんなことがあろうとも、政治の上からは事実上再起など少しも考慮されない。だから排除というその言葉がもつ内容と重大さが、肌で感じられ土壌はしっかり出来上がっている。

 都議選の時の「こんな人たちには…」という首相の言葉も、ヤジへの応答であったとしても、発想は重なるところがある。(反省する、しないの違いはあるが)政治家たるものが、一部のあるいは相当の部分であったとしても、国民のある部分について「排除する」といった瞬間に、実感として感じさせる重みがあるということに、思い至らないということだ。つまりよく言うところの「格差社会」を当たり前のこととして、認識しているだけのことだから、気軽に言葉として発声するということになるのだろう。