2014年2月2日日曜日

お江戸日本橋は七つ立ち…

 日本橋が陽の目を見るようになるという話。どういうことはない界隈の再開発することによって、高速道路を「動かす」ことを考えているとか。1964年東京オリンピックの首都高建設で、日本橋を陽の当たらない場所にした経緯を反省したわけでもなくて、再開発に不都合にならない範囲で何とかしようかというものなら、いままでと大差はない。

 オリンピックの名のもと陰に追いやった日本橋は、12歳くらいで江戸に奉公に来た少年たちが20歳になって初めて関西に帰るとき、「七つ立ち」をメドにしたという。「初のぼり」は、初めての「帰省許可」があって、従業員の多い大店に帰省する従業員が多くて、にぎわっている様子だった。

 日本橋とて、江戸の働き手の心躍る帰省の出発点だったことを考えれば、江戸の歴史に対して泥をかけたに等しい仕打ちだろうと言いたいところだ。正月の箱根駅伝も本来なら日本橋起点でもと言えるのではないだろうか。東海道という日本文化の道筋を通るのであれば。読売新聞社からという文化というにははばかる事業者の会社の前から出発では味気がちょっと違う。

 「戦災」でなくしものは数えることができないほど膨大だ。それをさておくわけにもいかないが、幸いにも残ったものを日本の文化として丁重に扱っていないことに、問題がないのだろうか。都市集中を誘導する再開発を金科玉条のように扱って、それによって経済が発展するという決まり文句で説得にあたる。そうかなそれではと乗っかっていくことで、どれだけの東京や地方の、身近な地域の文化を壊してしまったことだろう。

 大きくても小さくても、営々と繋がって醸造された文化を、一部の自己都合で簡単に消してなくしてしまうということは、あってはならないことだ。そして、それが当たり前のようにされていることが、人の精神構造に影響を与えている様な気する。

 「戦争への道」が日本の国土も文化も破壊したということを、いつも思い返さなくてはならない。ところが、日本が他国を侵略したという歴史が間違いではなかったという真逆的な考え方が、実は日本の環境も文化も顧みない発想とつながっているような気がしてならない。日本橋が、国の重要文化財に指定されたのは1999年5月。首都高速建設から実に35年後だった。