2015年4月17日金曜日

「片づけ」は、闘いと思い至る

 日曜日に、二週間入院していた義母が退院した。顔色があまり良くないし、身体を動かすのが大変そうだ。息子の部屋を空けて移動させ、義母の部屋として使うことにしていたので、その荷物移動を2月の初めからやってきた。退院前日になんとか荷物の移動ができて、ベッドも借りることができてうまい具合に落ち着いた。

 2か月以上かかって荷物の移動と整理をしてきたが、息子の仕事が忙しくてなかなかすすまなかった。義母のベッド搬入が現実のことになって、前日夜にも荷物整理をする状況だった。連れ合いも大変そうだが、こっちも腰が痛くて参った。とはいっても、後がないからやらないわけにはいかない。なにせ、今では使わないものが嫌というほどある。

 片づけながら、片づけとは闘いだなと思った。いるのか不用なのか、使わないなら捨てるという訓練が身についていないと、広くはない部屋なのだから一杯になるのは当たり前のこと。「いつか使うかもしれない」という、かつては美徳であったことも、いまはそのまま当てはめられない。大量消費大量生産の時代を通じて、新しい商品が、特にIC関係の音響製品やらビデオデッキやらそれに伴うVHSCD各種が貯まりこんでしまう。

 仕事が忙しいと時間を取られていると、なかなか整理に至らないのも事実ある。元気でいるときに、片づけるという思想を持つ必要がある。この闘いに臨まないと、よく報道されているゴミ屋敷と同じことが身に降りかかることになるのではないかと、冗談で言い合っている。自分の「荷物」となるとなかなか見切ることができないのに、息子という他人が抱えているいらないものを「選択してもらう」のも、妙な違和感が生じる。自分の洋服やら本やらも「よし!」と思い切って、処分することに至った。これも今回の整理事業の成果になった。

粗大ごみでウッドデッキは足の踏み場がなくなった
収集料金は6000円以上