2012年12月29日土曜日

社会の有り様が釣りの邪魔をする


 しかし、釣りといえども「釣ろう」という気概が大きい場合は、情報抜きに勝手気ままにと言うわけにはいかない。最近特に実感するし、自分に限らず誰もが「釣れる」との情報を頼る。魚が釣れなくなっている事情からで、もっとも主要な原因は自然の改変だ。

 埋立ては東京湾の場合でも、非常な悪影響を及ぼした。これを普通悪影響とは表現していないが、例えば神奈川県にある水産試験研究センター(独立行政法人)では、魚貝類の種苗放流を続けている。アマモの増殖で幼魚の育成場を造成している。この状態からして、かつての東京湾にどれだけの漁獲高があったのかを想像すると、「悪化」程度を推し量ることができるだろう。

 我が社会では「少子高齢化」などと称しているが、海の中では、生物がものによっては自力再生不能な状態にまでなっている。代替えで得たものはあるのには違いない。だが、失ったものは大きい。海の匂いが、いまはしない。残った漁業者はわずかだ。
そして、政治執行のうえでは、ほとんどなんの考慮も払われない。

 食に関わることでこうした有様なので、当然釣りで魚を確保して楽しみつつ食するという文化は、手に入りにくくなっている。つりの腕前の違いも当然あるが、それだけではすまない問題を抱えている。三陸のあの津波は、とてつもない被害をもたらしたが、海水が入れ替わり浄化されたことで栄養分が豊富になって牡蠣の成長が良くなった。自然が持つ脅威が海の豊かさを同時にもたらすことになったのは皮肉なことだ。

 種苗放流とは必要かくべからざらことと思う。だからそれでいいということにとどまらないで、自然の生態系を崩してしまったことへ思いを至らす必要はある。そして手を打ちたい。いまの政治に期待することは、夢より難しい感もするが、またぞろ「公共事業第拡大」で資金が投入されて、自然の体系にツメを立てることになれば、海、山、河川に生きる生物は、絶滅か絶滅危惧種にカウントされることになってしまう。