2016年6月30日木曜日

写真がちょっとはよくならないかと期待して

 今は、平和な国(戦争する国ということの真逆の対極)であることを否定して、またぞろ侵略戦争を肯定する時代への「岐路」「分かれ道」ということで、来年の写真展のテーマ設定を検討している。前回の「共生」もなかなか難しいものだったと思うが、概念の広さが許容されていたので、なんとなくまとまったようでもあった。

 現代の瞬間をテーマによって括ってみるのは、写真展でのそれぞれの主張が個々バラバラであるよりは、迫力が増してくるような気はする。ただ、テーマにきっちりと当てはめるような作品をと考えると気が重くなってくるし、なによりこれまで自分の感性なり、シャッターチャンスで撮ってきたものとは違ったものになるということもある。撮っている自分の写真が、テーマが掴めきれていないということから起きていることなのかもしれない。

 そうではなくて、このテーマに沿うポイントと瞬間をこれから切り取っていくことを考えることが、写真力を増すことにはなると考えるべきなのだろうか。自分が写真を撮る瞬間は、まさに何のバリアもなく好き放題にシャッターを押すのだから、いわば身勝手なまったく自己流のものだ。さしたる筋道も考えず、整理もしないやりかたなので、今とは言わずともどこかでまとめていかなくてはならないが、それを纏め上げていくことは必要な事であっても、もっとも難しい。

 してみると、やっぱりテーマに沿って撮っていくのがいいということになるのだろう。ところで、どういう「テーマ」がいいのかが、さっぱり頭に浮かばないのはどうしてなのか。おおよその国のあり方の分岐点ということは、当たり前にわかっていることにしても、その分かれ道付近の場面とは写真にするとどんなものなのか?分かれ道なら、今平和であることの切り口はその写真とはならないのか?テーマと己の写真を巡って目下混迷中だ。

撮影2016.5.30
松代大本営地下壕
 地下壕は硬い岩盤
 ダイナマイトを削った穴に
 鉄パイプがささったまま
 朝鮮人が書いた文字
 横穴
朝鮮の人たちがどれくらいいたのかの記録はない