2021年9月26日日曜日

「精神科病院から転院できず235人死亡」が、ナチの「障害者殺人」に重なって見えて

 「それはホロコーストのリハーサルだった:T4作戦 障害者虐殺70年目の真実」(2015年にNHK『ハートネットTV』と『ETV特集』)という番組が、先日再放送された。「ユダヤ人の大量殺戮の前に、20万人を超える障害者が殺されていた」との史実をたどったものだった。ナチスによるユダヤ人の大量虐殺については、戦争犯罪としていまでも見聞きにすることがあったけれども、こんな歴史があり今になってその見返しと反省があることを知った。

 ユダヤの手先となった医師が、精神を病んだ子供たちを選別し、「立ち直らない」認定をして収容施設に送り込み、安楽死をさせたという、ショッキングな内容だった。ヒトラーが安楽死計画に賛同し、命令書に署名をしただけで、障害者の大量殺害を計画したのはドイツの精神科医たちで、現場で殺害を遂行したのも医師や看護師たちだったという事実にはほんとうに驚く。同時に今は…との疑問符で考える。

 ナチスの安楽死計画を研究する専門家たちは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて欧米社会で隆盛だった「社会進化論」や「優生学」などの影響で、障害者の隔離や断種にとどまらず、後の大量殺害にまで発展して、さらに「安楽死」という考え方を必要としていたという。

 「20101126日、ドイツ精神医学精神療法神経学会のフランク・シュナイダー会長(アーヘン工科大学医学部精神科教授)は、ベルリンにおける年次総会で、ナチス時代に精神医学の名のもと、強制移住、強制断種、人体実験の被害を強いられ、また患者として殺害された犠牲者をしのぶ追悼式典を開催しました。追悼式典には、3000人の医師たちが参加しました。」と振り返りの活動がされているのは救われる思いがする。

 「安楽死施設」へ送り込まれた子供は、注射を打たれるが、一様に「肺炎で死亡」との結果が記録されていると映像で紹介していたが、新型コロナも肺を襲う。「コロナ感染で精神科病院から転院できずに235人死亡」との記事をみて、「優性思想」がいまだに生きているシステムが今存在していると、不快な気持ち悪さが湧いてきた。

 日本精神科病院協会の調査で分かった。回答した711病院のうち310病院で新型コロナ感染発生。入院患者3602人病院職員1489人が陽性で、要請しても転院できず死亡したのは235人も。



2021年9月20日月曜日

「撮り鉄」が悪との定義づけ、排除の対象との在りようも気になる

 共産党の山添議員が「撮り鉄」書類送検された。最近よく報道される「勝手踏切」を渡ったというのが、軽犯罪法違反として書類送検になった。18日に当議員がツイッターで軽率な行為だったことを反省…と投稿したあと、読売新聞が記事を配信している。「関係者取材」した読売新聞だったのも特記事項かもしれない。その記事を使ったYohooニュースでも、読売同様コメントが数多く投稿されている。「撮り鉄」の反社会的行動が報道されて、警察が取り締まりを強化していることでのこととのコメントもある。昨年の11月に線路横断をしたことを、選挙が近づく今ごろになって書類送検という、意図的とも言われても反論できない時期になった。コメントは大体がその筋のグループによるものが投稿している。共産党だから…というものが多く、読んでみると「矢代発言」と同様の意図的背景を感じさせる。

「撮り鉄」が、「ルールを守らないで」という報道も最近よく見る。でも、「最後の走行」を宣伝して集めているという側面もある。このコメントの中にも取り締まりを厳しくやれというものがあったのが、たしかに撮影するために様々な、条件づくりをやってしまうという悪幣がある。邪魔な木を切断するなどとすることは、絶対あってはならないことだ。渓流釣りでも、釣っている人の直前に立ちこむなど、反エチケットがあるし、他人や社会に影響することは、議論と調整が必要なことがある。気持ちよく趣味に親しもうとすれば、一定の了解事項が大事なことも確か。「勝手踏切」使用禁止、廃止が付近の利用者の利便を奪うことも宿題だし、もともと付近の住民が都合よく作った歴史を無視していることも考えなくてはならないことだろうと個人的には思う。

 公人であれば、その場は渡ってはいけないという理解が正しいのだろう。どこまでの責任かということならば、ハチャメチャな事件を起こして、それこそ起訴されようと、ときには判決が出ても議席にしがみついているというあくどさとは、程度が違ったものだろう。おりから無免許運転の都議をここにきて書類送検とは、なんと念がいった動きなのだろうと、思わず「ドラマ仕立て」を想像してしまう。

2021年9月13日月曜日

楽しみな「ドクターX大門未知子」

 10月(木)9時に開始される「ドクターX」を楽しみにしている。

 中間管理職の「御意」の言葉が風情に合って、目下の政治に重ねると痛快に見える。「御意」の映像が、「忖度」態様への風刺としての味わいを披露しているようで面白い。うまい言葉を拾い出したものだ。テレビドラマにも、「水戸黄門」のように「気持ち」に寄りそうところがあると、見ている甲斐がある。この言葉を非公開の閣議で使ってはいないだろうなどと、思いをはせると余計ドラマが楽しくなる。

 江戸時代のドラマでよく使われているが、当時はまったく「真摯」に使われていたことだろう。今は忖度を強引に迫る人事制度…やらの陰湿さがまかり通って、すべてイエス返事の仕立てで、ドラマにもしにくいだろう。「ドクターX」にすべて期待を載せることもできないが、コロナのご時世を中に取り入れるとの事なので、どんな描き方になるか興味深々。ドラマ中の赤字経営の病院も、公立病院の「民営化路線」で、コロナ対応で医療崩壊にいたる現在の背景が描かれて、アンカーになっている。「社会派路線」なっていると見心地がいいので期待したいと思う。


画像 2021.08.12朝日新聞

2021年9月9日木曜日

走れ総裁選

 最近競争事業(競馬競輪オートレース)のテレビ放映が増えている。「ギャル」を登場させて、若者を取り込もうという算段。IRを日本に呼び込もうという背景が広告料をたっぷり使っている。博打はいけないものという「常識」を覆して堂々と皆の目に触れるようにするとはなんたることだろう。賭け事で勝者になるのは「ツキ」としか説明できない代物で、アルコールや薬物乱用のように心身から取り込まれるのだから、決していいことはない。

 オリパラが終わって、政権持ち上げの構図が見込み違いになり、手筈通りの解散を先にもっていくしかなくなった。モリカケからコロナ対応まで混迷極まってきた政権は、9年もの間あらゆる手を使って続けてきた。コロナ感染者へは「自宅療養(放置)」を公言し、大きな批判が起きても取り消さない態度には、ここまでやるかと驚く。総裁選でメディアを引き込んで、連日顔見世をさせていることもまことに妙な事。

 「コロナ禍での騒ぎ」に批判があることに、頭においてやっていくのだと言う詭弁を使う。そういえば「頭に置いて」オリンピックやったことで感染爆発が起きた。医療は崩壊、必要で急がれる対策の正式な議論も国会を閉じたまま。国会を開かずに総裁選レースにのめりこんでいるのが日本の政治。いい加減にしてくれと思う。歳費をもらって総裁選レースかよ!メディアがこれをはやしたてているというより、支持率浮揚のための応援団を合い務めている。わかってやっているのだろうと思うと腹が立つ。

それなら、カケでもやったらどうだ。

(^^♪ ~走れ総裁馬~

これから始まる大レース

ひしめき合っていななくは

同じムジナの総裁馬

コロナ下ダービーめでたいな

走れ走れ総裁馬

本命穴馬かきわけて

走れ走れ総裁馬

追いつけ追い越せひっこぬけ

 


「長崎IR」内定のオーストリア国営カジノは「疑獄事件」の渦中 日本法人代表は「小林幸子の夫」

2021年9月4日土曜日

責任をお持ちになる方々のふるまい

 メディアが例のごとく一政党の争いごとをネタにして、はやし立てている。なにゆえ「候補者」をテレビ画面に引っ張り出して、権力争いの「盆踊り」を照らすのか。ほんの申し訳程度に「今その騒ぎではなくて、国会開いてコロナ対策」という主張もあるにはある。

 「健康危機管理庁」(仮称)を設置、国主導で「野戦病院」のような臨時の医療施設開設を進め、「医療難民ゼロ」を実現などと対抗者が言い出すが、それなら同じムジナのなかで、これまでどうして主張してこなかったのか疑問がわく。総裁選挙のネタとして打ち上げ花火で使うことはわかるとして、本当にやる気なら国会開いて、ご本人も加えて議論したらいい。コロナ対策にブレーキをかけて、衆院選挙後までただ時間を食いつぶすことにならないか。

 現政権発足の前後、メディアがはやし立てて高支持率を出させたのはついこの間だった。今の支持率が妥当だったとが、ここまできてようやく表にでてきた。一政党の「踊り」を客観的に報道することを軽視して、「災害並みの危機」にまで招いてしまうことになったメディアの責任は重い。「盆踊り」は、舞台に上がる人の周りにいくつかの輪はできる。でもその外側で見ている人も圧倒的に多くいることわかっているかな。

 ここまで書いたところで、「不出馬」速報。中身は変わらないのでこのままにした。すべて「世論」を無視して、やりもしない「ていねいな…」「先手先手の…」の言葉でしのぐなんてあり得ない。ようやく、あり得ないことが実現した。この続きがまた同じ穴のムジナではしょうがない。



2021年9月1日水曜日

捨てないでおくれ

 テレビでしょっちゅうやっているゴミ住宅が、他人事でない「親近感」を思わせることがある。部屋の中のモノ、特に本は散らかっている。月刊誌もあるし、時折気が向いて買った本も行き先のコーナーが決まらないまま、デスクや棚など平らなところの上に重なっていく。決まらないのは読み切っていないせいもある。おまけに順不同になって、後からどこにあるかと探すのが難しい。衣類の方は退職人種ゆえ増える要素はそうない。捨てる決意をするチャンスを待つのみだけど、「一年間使用せず」の基準は忍びない…。ほかに手紙やら宣伝物やら整理すればよいものを、ゆったりと目を通すものだから、身の回りに見る間に溜まっていく。

 寝られなくなるのは体力が無くなったといわれるが、片付けも体力がいる。新聞の切り抜きをスキャンして保存するなどは、やるべきことでもやらなくてはいけないことでもないが、自己目的化して一日の励みにはなる。そうでもなければ、余計惚けるだけのことなのだと思い、あれこれの目的をみつくろって実行する。

 だけどそれにも体力がいるようで、だんだんと、とっかかりが遅くなったり、すぐ疲れてしまったりで終えるまでに時間がかかる。自分が役に立たない廃棄物に近づいていくようでもある。まあ末はいらないものになるのは必定だからあきらめもする。コロナ下で二年も追いかけられ、この先もどうなることか。頭の中も、後ろ向きになっていくようで困ったことだ。

これは「捨てないでくれ」使えるのだから