2024年4月25日木曜日

花見山、桜満開人満開

 月曜日で幸いだった。それでも時間がたつにつれ人出がすごい。こちとらのように年配のひともいるけど、若い人たちも外国人も交じっている。小高いコースが分かれて伸びているのに、我がが身を忘れて結局は一番遠いコースまで歩いてしまう。サクラと菜の花の黄色がよく溶け合って、華やかな気分になる。ぞろぞろと連なって歩いても、お互いがそんなに邪魔しあうこともないのは、気分的にも楽だった。時々見える眼下の景色が、小高い山のなだらかさからみてちょう感じよく、高麗者(「高齢者」を間違えたにわけではない)にも優しく感じる。

 ずっと歩いて桜のいろいろな風情を写真で撮るのは撮影の練習にちょうどいい。撮り方と映り方を考えながらあるくと何枚も撮れる。デジカメは簡単に何枚も撮れるのにもかかわらず、撮る枚数が少ないことが多い。それは当然なことで、何枚も撮っても仕方がないからだ。ところがギッチョンで、ず~と写真を撮って人目にさらすということをやっていたら、どうもそんなことでは済まないことに気が付いた。もののある瞬間をシャッターチャンスとすれば、朝昼晩、雨風雪、季節、季節の変わり目年月の経過などなど、たくさんの異なった場面が対象になる(できる)ので、カメラで撮らなければもったいないということにもなる。シャッターを押すのは、「ここがいい」と決めて実行するのだから、その画像(フィルム)は自分のお好みの一枚なわけで「思い」が籠っている。だったら一枚だけ撮るということではもったいない。夕方の瞬間でも数分、何秒後かには表情が変わる。

 サクラを撮るなら、ここと決めて撮るけれど、ちょっと角度(360度ある)を変えてみるとか、後景をどうするとかで、一枚では終わらない。そんなに身を入れることはないかもしれないが、もう一つ言えるのは、人に見てもらって写真の楽しみを交流・共有するということだから、「もうひとつ良い写真」であれば、言うことはない。「もう一ついい写真」はどこかの写真展で選ばれるようなものまで考えれば限りないほど何枚も必要になる。

 写真展に出すなどということを考えないのも普通だ。それでも「もっといい写真」は撮れるけど、見てもらうという負荷(楽しみ?)がもう一歩素敵な写真を撮ることにつながることは間違いない。ただ、たくさん撮ったとしたら写真の後の始末をどうするかということがある。どこにどう残すか、もう断捨離で早々に片づけるのか、画像の後始末はどうしようか?が、ゴミ問題に近く課題になる。ちょっと話題がそれてしまったけれども、たくさん撮るということにかかわることで、花見山は良い対象だったということが言いたかった。


花見山








とびとび写真集

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