2013年7月2日火曜日

世界遺産、間垣の里も助っ人が必要だ(5月28日)

 輪島を離れて、能登半島の旅の終焉は、間垣の里に寄るのが通例だ。旅の終わりを惜しみながら、通りかかるのにはふさわしいところかもしれない。ともかく人がいない、そしてともかく海からの風に圧倒される集落。店一軒あるでもない。

 間垣の里の景観を引き継いでいこう、という取り組みが金沢大学の学生たちによって進められていることは、東京に戻ってからわかったことだった。
 要するに、高齢化によって海からの強風から守るための間垣が、高齢化のために維持するのが大変になった。板張りに換えてしまうことや、放置してしまう状況を、どうしていけばいいのかという命題に取り組んで、方策を検討したというもの。垣根の材料であるニガタケの移植や、地域外人材の活用などの可能性を、実体験しながら探ったという。
 
 間垣の様子が依然来た時と変化していると、写真を撮りながら感じていた。それがなんだかは解るべくもなかったが、家並みに入り込んで撮った廃屋も、その象徴となったのかもしれない。
 こんなことが解かってくると、観光写真風というのからは、その背景が出てこないな、ということを思い知らされる。学生が調べた間垣の「伝統継承タイプ」の14のうち、現在残っているのは、たった4つという結果だった。このままでいけば、希少な文化がここでも廃れていくことになる。

 金沢大学の他にも研究が進められているということだが、こころ強いことだと思う。写真家(シャシンカ、シャシンヤ)は、金沢大学の学生が、ニガタケの植え替えと、垣根の取り換えをするところを撮らなければならないことになる。さて、そのエネルギーと時間があるのだろうか。














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「輪島西保地区の間垣」保全継承のための実証的研究
金沢大学地域創造学類地域プランニングコース

 能登・輪島の特徴的な里山里海景観を構成要素である「間垣(まがき)」は,大沢地区においては,過疎高齢化等の進行により,地域に自生するニガタケにより作られた伝統的なタイプのものがほとんど消失する状況にあり,その保全を図る必要性が急務であることが確認された。このため,間垣保全活動であるニガタケ伐採,間垣補修等の一連の活動を地域住民と学生が連携して行うプログラムの可能性を実践的に検証し,今後の支援のあり方について検討した。

強風から家々を守る
地域のニガタケを毎年差し替え
高齢化のため維持管理が難しい 板張りへの変更または放置
間垣の風景を残すためのの仕組みづくり
学生の活動と地域外人材の活用の可能性
東京農業大学荒井研究室

 ニガタケの休耕田等への移植事業の可能性について現地検討
所有者による補修が困難となっている複数の間垣
を対象に,学生と地域との連携による間垣補修作業を実施し,実施可能性を検証するとともに,作業内容等に関するデータを整理

 昔ながらのニガタケのみによって間垣を構成する「伝統継承タイプ」,維持管理のしやすい板材のみによって構成する「簡易タイプ」,簡易タイプの板材の隙間にニガタケを差した「混合タイプ」の存在が再確認されたとともに,板材の前面全てにニガタケを薄く差した「擬似伝統継承タイプ」やトタン板等のみで構成される「改変タイプ」の存在が確認された。
 また,2009 年時点で伝統継承タイプと確認されたもののうち(14 個),現在残っているものはわずか4個であることが確認された。

 補修支援活動対象間垣について,学生中心による補修作業を以下の内容で実施した。補修作業も,想定した作業時間の範囲内で作業が完了でき,学生中心によるニガタケ補修作業の実施可能性を検証
2012.11.05(月)(大学休日)
ニガタケの生息環境調査等にもとづき,ニガタケ伐採作業時および間垣補修作業時に,ニガタケの生息環境整備のための実証実験として,学生が中心となってニガタケの間伐,ニガタケの株掘り起し・移植作業を実施した(詳細省略)。今後の生育状況についてモニタリングを行う予定

地域からの評価も高く,間垣保全支援活動の今後の持続的,多面的な展開が期待されている。
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参考






2013年7月1日月曜日

輪島の朝市で(5月28日)

 ここも3回目だ。T先輩が朝市のお母さんたちに、前回きたときに撮った写真を届けると、被写体になってもらった相手を探し回る。あちこちでどこの場所にいるかを聞いていくが、顔を見てもピントはこない。様子が変わっていることもある。そして、中には老人ホームに入ったという人の情報もわかる。そのときは写真を預かってもらうが、気持ちよくやってくれるのでうれしい。

 そんな動きをきっかけにしても、何枚かを撮らせてもらう。ここまで来ると拒否というのはない。さすが先輩だと感心する。そこまでする写真家はあまりいないようだ。一人だけポツンと市場から離れて、草履を広げている人がいた。ちょうど、家で使っている布草履がダメになってきていたので、一足買うことにした。もちろん一枚撮らせてもらうように頼んだ。しゃんとしていい風貌だった。














2013年6月30日日曜日

白米千枚田の夕陽は残念ながら…。(5月27日)

 ここは3回目になった白米千枚田。ここで夕陽を取るのが、今回のメインのひとつ。輪島まで距離も遠くないから、一時寄って昼食を食べて撮ろうかと車を止めた。観光地なるゆえに賑やかに、さあどうぞという割には、腹にたまるような食べ物がなくて、食事がわりの簡単な食べ物を買って間に合わした。観光客もひっきりなしにやってきているが、田を回ってみる人は多くはない。

 すでに稲が水から立ち上がっている。田植えのアトラクションか何かで使ったらしい、飾りの残骸がぶら下がっている木が、一本だけ異様に残っている。それを入れたら絵になりそうもない。2年前に世界農業遺産に登録されているが、一体それが何をもたらしたのだろうかと、観光事業にばかり力点を置く現世に、また疑念を感じた。だが、否定していいのだということも、言い切れることではない。

 やや苦労しながら見通しの良い上の方にも行って、記録として残した。これも感動が薄れてきているせいか、力を込めた写真にはなりそうもない感じだった。





 輪島のホテルにチェックインしてから、輪島の港のほうへ一回り回った。夕方なので、港の活気はない。代わりに子供が遊んでいるのが被写体になってくれた。チェックインした時に、仲居さんに今日の夕陽の時分の天気はどう?と問いかけたらまあダメでしょうと即答だった。でも万一晴れたらお客に申し訳のないことになると、天気予報を確認して、「外れても怒らないで下さいよ」と念押ししていた。







 



2013年6月29日土曜日

狼煙から輪島に抜ける途中(5月27日)

 ここも場所が特定できないが、海岸線を走っているとでワカメを干す作業している漁師さんが見えたので、急きょ車を停車させて、また頼んで撮らせてもらった。午前中に干して午後から芯の部分を取るのだと説明していた。そのほかいろいろ話をしてくれたのに、言葉がよくわからずに生返事したりして失礼してしまった。 お母さんたちもしゃべりながら、手際よく作業をしていた。昨夜停まった狼煙のことを話したら、学生さんが来ているんだよねえーと言っていた。地元のことは、よく伝えられていくものだ。






 そのあと、これも海岸より高いところを走っていたとき、車窓から小さい港が目に飛び込んできた。衆議一決ここに入り込んで、パチパチと撮りまわった。私の場合は奇をてらって撮るのが策略だから、小さな湾を回り込んで今は使っていない、壊れた港の様子を何枚も撮り込んだ。水の綺麗さと、豊かな海藻群、わりと新しい住宅の鎮とした風景が、面白かった。人影が全くないのが不思議な感じだった。









2013年6月28日金曜日

狼煙(のろし)漁港、夜の活性(5月26日)

 能登半島の北東の先端にある小さな港。二日目はここの目の前の旅館で滞在し、今回の目玉である漁船の水揚げの様子を撮らせてもらおうと、旅館にも事前に話し、状況を聞いて準備をしていた。
 夜8時半に旅館のすぐ前で、明かりに照らされて浮かび上がる水揚げ作業が始まった。撮らせてもらう時には、その人に断りの一言を言うのがエチケットだが、それで断られるのがイヤで、いつもすんなりと入れないものだ。しかし今回は、幸いにもちょっとお酒も入っているので、滑らかに話ができた。魚となれば多少の知識は素人方よりはあるから、魚の話をすると漁師さんの口も軽やかになって、写真を撮らせてもらうことができた。

 網にかかったオコゼを取り上げて、これは危ないんだよと何度も話して教えてくれた。先刻承知という言葉は呑み込んで、そうですかと相槌をうった。漁師さん、よっぽど痛い目にあったのだろうか。
 だから、この場は私のおかげで写真家の皆さんも撮りまくることができたのだと、少々鼻高な気分になった。









 
 お母さんは口に五寸釘を噛んでいる。魚を外すときに使うのだと話してくれた。まとめて買い入れてあるのだそうだ。魚は大きくい足水揚げは少ない。長期的には減っているらしい。でもだから、網中に大きいものが入った時はうれしい。ちょっと持ち上げてと声をかけた。よい型のクロダイだ。網の色は2種類あって、狙う魚によって替えるらしい。この漁師さんは、お隣とは違うものを狙っていたんだと言っていた。




2013年6月27日木曜日

五箇山、相倉の校倉づくりの里から狼煙漁港まで(5月26日)

 二回目の訪問になった五箇山・相倉は少し観光のトーンが強くなったみたいだ。でも、民宿の奥さんお話を聞くと、深刻な状況が浮かび上がる。どこにでもその悩みはつきものでもあるが、若者は職を求めて出て行ってしまうし、人手の減少と高齢化は稲作の維持が困難さいなって、観光農園として繋ぐ以外にないということに至っている。校倉づくりの屋根はいまは「結」もなく、農林組合が順に定例的業務として回しているという。好き勝手に訪れて「らしさ」を要求しながら、そんな話を聞くとこころ穏やかに写真を撮って伊r場合かと、駆け出しの写真ヤはなにか反省を迫られるように思う。そういうところが見える写真が、撮れるものかどうか、自信はない。








 五箇山を後にして、狼煙(のろし)漁港に向かう途中で、名もない港(本当はあるが思い出せない)に寄って、港の風景を一通り撮り、その町か部落の一帯を歩き回ることになった。通りかかったお母さんが「写真撮るなら、こっちの高台から見ると港が見えるよ」と親切に案内してくれた。内心、イヤーこの古い町並みから見えるものを撮りたいんだよ、と声を飲みこんで、案内に従って台地に上った。


 神社(神杉神社と後でわかった)と言われて登ったら、いつの間にか古い寺に入り込んだ。由緒は感じるが被写体以外のものを撮るだけで、どんな歴史を抱えるところなのか、調べるゆとりはない。だからこういう時に、後でどこだったかなと、困ることが出てくる。車までの帰り道は、イヤー港町じゃないよねーといいながら、どういう町なのか解らず、一様に想像がつきかねるという感想だった。
















2013年6月26日水曜日

写真家(シャシンカとシャシンヤ)4人の旅の一日目(5月25日~)

 能登方面へのこだわりを持つ4人が、最初にめざしたのは国宝瑞龍寺。といっても予備知識もなく、正直言えば好みからは少し外れる、知らないところだった。以前からこの地に通っているTさんの案内だから、お任せしてお寺「参り」。偶然、お茶会の催しがあって、ちょうどこれから始まるところでに遭遇した。ご婦人方が和服を着て並んで、会場に向かうところは、シャッターチャンスにさせてもらった。お寺のワビサビ風情と、うまい具合にコントラストが立った。





 そこから、珠洲市の散居を目指した。HPで検索して調べて下さったKさん案内で、迷わず展望台に無事到着した。ところがここには、日暮れのワンチャンスを求めて、競争相手が撮影場所を占拠している。写真撮影のスタイルは、そういうやり方もあるが、こちらは何カ所も撮影場所を予定しているから、こだわらずに望遠で何枚か撮って、さっさと退散。山を下って、展望台から見えた「散居」の場所へ向かった。

 田植えが終わったばかりで、田には透き通った水が蓄えられて、気持ちよい撮影ができた。水がある風景とはかくもきれいなものかと、来訪したことに満足した。田に写る夕陽も狙いどころだが、雲に隠れているし、遅くなっては宿泊先の民宿に悪いので、切り上げて五箇山へ向かった。







2013年6月25日火曜日

三保の松原、消波ブロック投入は安倍川の砂利採取が原因と。

20071231日中日新聞)の記事があった。
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 三保半島で浸食が目立ち始めたのは1980年代。
市内を流れる安倍川で砂利採取が盛んに行われた結果,65年ごろから河口東側の海岸で浸食が発生。浸食域が年平均270メートル幅で進み,約10キロ先の三保の松原に消滅の危機が浮上した。
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 安倍川は山梨県との県境をなす山間部から、静岡市内までおよそ50キロを一気に南下してくる一級河川。安倍川は三保の松原の西南にある。ここから砂利が供給されたことで、できた三保の松原。黒潮に流されて長い間にこの海岸ができあがった。清水港もその結果できたものではないだろうか。

 安倍川の砂利は、おそらくビル建設や道路など、大型の公共事業に利用された。上流部は、崩落しやすい地質で、砂防ダムが多数ある。大雨のときは、常に上流から大量の土砂が流されてくるため、平野部は川底がどんどん上がってしまい、いわゆる天井川状態になっている。それほどの砂利や砂が海に流れ込んでいた。

 砂利の利用はある意味「合理的、効果的な」利用だったのだろうか。だが、海岸を保全することはできなくなった。当時は日本全国の河川がこの憂き目にあった。国民の共有財産である自然が、さる特定の意図=内需拡大のために破壊された。自然がバランスを崩されたがゆえに、そこから起こることは、当然人間の側が引き取らなくてはならない。

 富士山をめぐる文化の内容からは、十分その価値があるとしても、ここにきて三保の松原を、対象から除けとされたことは、一面では自然の仕返しかもしれない。「説得が功を奏して」この地も世界遺産にということは歓迎するにしても、認定されればその荷物を負うことになる。それは当然のことだ。

しかし、中日新聞は、続けて書いている。
…静岡県は消波堤を設置して砂を補給するなどの対策を講じ,砂浜の回復に見通しがついたとしているが,現状は名勝と呼ぶには悲しいありさまである。対策の成果が表れるのは20年先の話になりそうで,地元は松枯れの心配も追い打ちをかけて苦悩している。
「せっかく補給した砂が,大波に削られたこともある。地道な対策が必」。200712月下旬,羽衣の松近くの波打ち際で,浸食対策工事の監督を務めていた杉山博康さん(32)が話した。
 海岸線は,消波堤などを置いた部分に砂が堆積し,のこぎり歯のようにギザギザしている。付近では1日に大型ダンプ60杯分の砂をブロックの上に投入するといい,杉山さんは『羽衣の松の前で、ブロックが見えてはまずいという事情がある』と説明した。

 補給した砂が流出して漁場を荒らすなどの問題が起きた。NPO法人「三保松原・羽衣村」(宮城島史人理事長)が07年10月、国や県、市などに提言書を提出した。「名勝というにはあまりに無残な工事現場さながらのありさまになってしまった。
静岡県の浸食対策費は89年度から2007年度までだけでも71億円に上る。…

安倍川の様子



 (2013/5/25 8:35)Yahooニュース(現在は削除されている。ちょうど一カ月で削除するらしい)
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富士山を望む三保松原の浜辺で野外学習をする高校生=静岡市清水区の三保海岸
 富士山の世界文化遺産登録に関連し、諮問機関のイコモスが構成資産からの除外を勧告した「三保松原」を見つめ直そうと、静岡市清水区の東海大翔洋高の2、3年生35人が24日、地学の総合学習の一環で現地でフィールドワークを行った。
 同校は三保松原に最も近い高校。生徒は学校東側の海岸を「羽衣の松」に向かって約1キロ歩いた。大迫崇史、加藤忠義両教諭の案内で海岸の石や崖の様子を観察し、地質学的な特徴を確認した。
 
 イコモス勧告が除外理由の一つに挙げた消波ブロックにも着目した。汀線(ていせん)の形状から、ブロックは海岸を浸食から守る半面、海流による岩石の運搬を妨げる副作用があることを学んだ。
 生徒は浜辺にごみをみつけると、その都度拾い集めた。三保の海岸をじっくり見たのは初めてという3年生の中谷翔太君は「三保松原も含めて世界遺産になってほしい。僕たちにできることとして、この海岸と松林の美化に取り組みたい」と言い、2年生の石橋健志君は「海岸の浸食を抑えながら美しい景観を守る手だてを見つけたい」と話した。
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自然を元に戻すことはできない。それほどダメージを与えることだと、つくづく思う。






2013年6月24日月曜日

役得でつまみ食ったのはマスコミだ

産経新聞 622()1820分配信
職員による不適切な事務処理の続発を受けて、訓示をする河野昌弘市長=兵庫県西宮市役所(写真:産経新聞)
 「もったいない」。そんな理由から、兵庫県西宮市の半数以上の公立保育所で調理員らが余った給食を食べていたことが明らかになった。余った給食は廃棄される決まりで、保育所長会でも「食べてはいけない」と取り決めていたが、周知徹底されていなかった。この問題で市は、所管部署の幹部らを文書訓告としたものの、調理員らについては「食べてはだめと知らなかった」として処分を見送った。給食費を払ってないのに“役得”でつまみ食いをしていた行為は、市民の目にはどう映るのだろうか。(吉田智香)
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 給食費を払っていないのに“役得”でつまみ食いをしていた行為が、市民の目から見てどうなんだろうという提起に、ちょっと違和感を感じた。揚げ足をとるつもりでもないが、払えば役得でないからいいということにもなるが、そういう質の問題なのだろうか。余ったものであれば廃棄すればいいという「取り決め」がその整理になっているのは、通常のことかもしれないが、考えたいのは「余ったもの」の方だ。

 食べ物は賞味期限を目安にするが、本来、期限切れでも食べられるものもあるので、色をよく見てみたり、臭いを嗅いだりして、場合によっては味わってみて判断をするのが、「もったいない」の解決法だった。そうする人は結構いるだろうと思う。
 コンビニでは賞味期限が切れただけでお弁当などを廃棄、消費期限までまだ34日あるようなパック入り豆腐、パンや麺類などがトラックに山積みで廃棄されるということもあるらしい。安く仕入れて大量に流通させるやりかたでは、「賞味期限」によって売れなくなるから、処分したとしても割に合うという計算なのだろう。

 食品廃棄物は年間500万トンから800万トンあるとされ、昨年のコメの生産量852万トンに匹敵するくらいのものを廃棄しているという。賞味期限や消費期限切れ、期間限定商品の売れ残り、試食品、へこんだ缶詰、規格外農産物、賞味期限の印刷ミスなども食品ロスとして廃棄されるとか。
 
 家畜の餌などとして利用されるのは一部で、大半は焼却や埋め立て処分されるそうだ。食べるために作られた食品が、傷んでもいなくてもそのままゴミとなっているのは、もったいないと言わないのだろうか。ご飯粒ひとつさえ残さずに食べるようしてきたのは、食料を大事にしようということでやってきたことだ。
 納豆は冷凍保存もできる。家庭ではちょっと気をつけていれば、食品を捨てることはほとんどないと言えるだろう。
核家族化だとか、賃金が少なくて結婚もできない若者が、料理に縁遠くなって、そういった食文化が、伝わらなくなってきた事情もあるのかもしれない。

 戦前の庶民の暮らしも楽でなかったろうが、戦後の食糧事情を体験したものには、大量に廃棄されることに釈然としない思いを持つ。西宮市は「食べてはだめと知らなかった」として処分を見送ったとのことだが、食の無駄をなくす方向からの検討も、しなくちゃならないのではないだろうか。「金を払わずに役得でつまみ食い」とことさら問題に持ち上げたいのらしいが、役得でつまみ食っている人は外にいくらでもいる。首相官邸に呼ばれて、役得でつまみ食ったのはマスコミの諸氏ではなかったのかな。



2013年6月23日日曜日

携帯電話15年6カ月の付き合い

 携帯電話の契約内容を、NETで調べてみたら156か月の付き合いになっていた。購入のきっかけは、身内の病気だった。ひところは便利に使っていたし、子供たちとの会話もあった。子供に電話を掛けたら、別の部屋にいたことがわかったという、馬鹿なこともあった。どこに行くときも携帯がないと不安みたいな状態になっている。特に待ち合わせの時などは、欠かせなくなっている。神社のお守りより、お守りになっているわけだ。

 だから、文句を言うと罰が当たるかもしれないが、固定電話を離れて携帯電話に費やしている金額は馬鹿にならない。今は利用料が減っているが、おおよそ月平均4000円の使用料とすると、156ヶ月で80万円近くになる。家族4人が使っているから320万円払ったことになる。いまは、こどもたちもスマートフォンに換えているから、月の利用料はもっと高い。

 問題は、これにつぎ込んだ少なくない財から、十分対価を取得できたかどうかだけれども、それはよくわからない。電話は情報を伝えるもので、必ずしも幸せを運ぶものではないからかな。
 利殖を求めて使っているものでないから、金にも換算できないし、受け取る電話は、マイナーな話の方が記憶に残っている。

 荷電しておいて「いま、しゃべれますか」という枕詞は面白い。固定電話なら必要ないセリフだ。相手が明確だから、立場を考えるのは当然と言えば当然。トイレの最中だったらまずい。
 電車のなかや、病院、観劇の時などいちいち切るのも煩わしいエチケットだ。いまさら、携帯電話のない環境に戻るわけにもいかないだろうけど。もしかしたら、煩わしいこの器具をなくしたらいいんではないかと、チラリと思う。そしたら、固定電話しか通じなくて煩わしさからは解放される。老い先を鑑みるときに、煩わしいことを減らしたいというのも一つの要求だ。
と、思いつつも釣り場では「こっちの方が釣れてるよ」という電話は、必要欠くべからざる情報だ。