2013年11月23日土曜日

咲かないほうがいい花とは

 お茶の花は咲かない方がいいとは知らなかった。カメラを持って撮りあさるメンバーは、これという被写体を探して懸命になる。いい写真をとろうとすると、それなりの立ち回りが必要になる。茶どころだから、それも撮っておかなくてはと、昼食場から出てすぐ隣に広がる茶畑に行く。人気はないが、広い茶畑が広がっていた。どうやって撮ろうかと考えながら近づいて見ると、ちょこんと花が咲いていた。いくつも咲いていないが、点在してあちこちに見える。
この花が咲くときは、天候の状況が悪い時などで、お茶の木が弱っているときだということ。期待されない花とはなんということだ。これも温暖化の影響なのだろうか。














2013年11月22日金曜日

川根茶も大井川の恵み

 退職者会の旅で寸又峡に行ってきた。紅葉の時期ゆえに参加者が多くて、バス一台で補助席まで埋まった。大井川に沿って登っていくが、川の流れが貧相でご多分にもれず小さな砂利を敷き詰めたような河原。広い河原にトラックが入り込んで採取しているらしい場面も目に入る。砂利採取は禁じられているはずなのに、なんらかの手がつかえるようになっているのか。上流に向かうにつれて河原に砂利を積んでいるところや、河畔に工場らしきものもある。それを見る限りは川とは言えない。雨が降ればただ水が流れる水路で、川や河原には生き物は数えるほどしかいないだろう。

 川は人の生活を潤してきたし、水は命を維持するのに絶対不可欠なものとしてきたはずなのに、冷たい仕打ちだ。乾いた小砂利が果てしなく転がっているだけの川は、沙漠のようで嘆かわしい限りだ。お茶の名産地は、湿気も大事な役割りをもっているという話も聞いた。川の恵みは大きいものだ。東京都の都市計画審議会が、ビルの容積率を上乗せするということを決めた。三井不動産が日比谷に計画する地上37階建てのビル建設を可能にするという。 

 「オリンピック特需」で、またぞろ鉄とコンクリートを積み上げることに向かっていく。横浜市庁舎の建設をオリンピックの前に竣工させると市長が言っている。山と川の受難が続く。

東名高速から見えた河内川の南1キロで見えた「山削り地点」。地図で見ると二カ所ある。



 大井川本線福用駅前の大井川、砂利採りらしき工場が見える










2013年11月21日木曜日

藤原紀香の軽いノリがいい

 特定秘密保護法案は大きな問題なのに、パブリックコメントが短期間でいいのかとブログで書きこんだ藤原紀香は、いまFacebookの投稿でもちきりだ。なにが秘密なのかが秘密で、わけのわからないまま逮捕もされ、罰則も適用されるという暗黒の社会をおかしいと思うのは、ごく普通の感覚だ。


 藤原紀香のFacebookを見ていたら、オリンピックの招致が決まったこときにもコメントしていた。この投稿には16,835人が「いいね!」をクリックしている。スパッと批判している気持ちのいいコメントだ。Facebookの「いいね登録者169,147人。







2013年11月20日水曜日

交通機関の悪口を書いたせいではないだろうが、夜にも遭遇

 昨夕は釣りの会の理事会に行っての帰りに、新宿で降りて乗り換えようかと、地下鉄の入り口まで歩いていくと、改札で人だかりがしている。ああ止まっているのだなとすぐにわかったが、しばらく見ていても運行停止している理由がわからない。ともかく停まっているから、定期券の利用者は振替輸送の券をやると、配っているのはわかった。

 改札の中に入っていく人もいるが、どうなるかわからないからJR利用で行こうかと元来た方へ歩いた。人の間を歩きながら、せっかくだからここから歩いていくかと、迂回して地上に出た。新宿駅は9時前で人の流れは多い。ビックカメラの入り口で「9時まで空いている」と看板を持った青年が立っている。これから暮れに向けては売り上げ増のハッパとノルマが大変だなと、同情だけしてそのそばを抜けて青梅街道へ。

 迷うことはないまっすぐの道を中野坂上まで出れば、あとはいつものウォーキングコース。小一時間かかって家に着く。息子が風呂に入っていたので、電車は大丈夫だったのかと聞くと、止まる直前に帰ってこられたらしい。運のよかった息子に不幸な親父ではあったが、12,000歩を超える「実績」を手に入れた。これでガンマーgptが減れば「幸」に転ずる、と思うことにした。

2013年11月19日火曜日

犬も歩けば…程度ならいいが、危ない交通機関

 昨夕、池袋まででかけた。14日に出かけたときもそうだったが、人身事故で電車が遅れていた。横浜の方で事故が起きても、中距離電車というのか乗り入れで走っている列車が影響を受ける。かつては地下鉄の電車が遅れることはまったにはなかった。あってもよっぽどのことで、日常茶飯事になったのは最近だ。

 「人身事故」が増える要因をさておくとしても、運行の周辺機器が故障するということも多い。最近はさすがに止めたが、「車両点検のため」に遅れているとアナウンスしていた。車両点検など事前にやれといいたくなる。国鉄分割後の事故の「定義」が変えられて、国土交通省への届け出が緩くなっているのも要因の一つだろう。乗車が一回で目的地に行けるのは非常に便利だが、つまずいて関連の路線に影響していくのは大きなリスクだ。

 元をただせば都市への集中ということがある。ホームにあふれる人が落ちないように、ホームドアを設置して危険度を下げるのはいいとして、その分列車が途中で停止したときに、運転士一人でなにができるのだろうか。マニュアルでできることがあるにしても、それこそ地震の時にはどうするのか。モノレールは運転士もいないわけだから…。

 JR北海道の手抜き偽装はぬかるみに入っている様相だ。国交省が張り付いて監査するに至った。地元では利用しないようにしているというのは解る。ここまで落としたのが、国鉄の分割民営化であることは違いないが、その株主である国交省が調べていての有様なのだから、まったくみっともない構図だ。交通機関の安全は誰が守るのかという肝心なところが成り立たない世の中を造ってしまった。

昨日はまた、B787の事故が起きている。
@日航のB787型機がエンジン始動できずに5時間半遅れる
 16日、シンガポール発成田行きの日本航空712便・B787-8型機が出発に向けてエンジンを始動したところ、左エンジンが始動できないトラブルが発生しました。このため、同機は出発ゲートに引き返し、エンジン制御コンピューターのリセットなどの措置を行い、5時間33分遅れで出発しました。
Jal不当解雇撤回裁判原告団のFacebookから)

そして今朝も、
~近江鉄道本線で踏切事故 運転見合わせ
~電車にはねられ高1死亡 JR山科駅、2万9千人に影響

~相模鉄道=希望ケ丘駅で車両点検を行った影響で、列車に遅れが出ていましたが、09:00現在、ほぼ平常通り運転しています





2013年11月18日月曜日

酒をたしなむ。たしなむ程度が問題か。

 今朝は朝早く目が覚めてしまった。ちょっと集中してやっていることが気になって、頭をめぐらしてしまうと身体の温度が上がってきて、起きた方がいい状態になる。鼻が詰まったのが原因で目が覚めたのだろうと思うが、無呼吸症候群の気もあるようだから、どちらにしても息が詰まった状態でのことだろう。近頃よく鼻が詰まるし、気温が下がってくるから、体を温めようとすると余計に鼻が詰まる。
 
 だいたいは途中で起きることはなく、快適な朝とはいかないが、目は覚めるから、健康な部類に入っているのだろうと思う。健診の時は問診票に特には何もないと書き込むが、細かく言えばあれこれの心配事は人並みにある。その心配をあれこれ書いてもおおよそ返ってくる言葉はわかるので、余計なこととして書き込まない。健診の内容も項目によっては、だんだん有料化され、メタボであるかないかぐらいが振り分けの元になっているから、どこまで信用していいのかと、自己診断型の判定に入ってしまう。

 血液検査ではγGPTや中性脂肪や、話題になるような結果が出てくるので、注意の自覚を促される。今回も数値がこれまでになく高めだったが、アルコール摂取が多いことは解っているし、食欲よりは早食いが影響していることは自覚している。だからさっさと医師に対しては「頑張ります」と決意表明をすることでしのぐ。今回は別途検査をしろと言われるかと思ったら、それはなかった。よかったと一瞬思ったが、この先一時の自覚期間が過ぎると、また「まあいいか」という生活に落ち込む。

 ポイントはそこにあると、何年も過ごしてきたのだからダメなものだ。健診結果が出たときから、鞭を入れなおしてまたウォーキングをキチンとやるようにした。ここ一週間でも一日10,000歩は歩いている。大したことではないが、確かにずるずると目標をないがしろにしていたから、それも数値高騰の原因になっていただろう。運動項目も一つ増やした。

 しかしながら…このさき退職者会の旅行あり、現役時代の仲間の忘年会あり、撮影旅行ありと、「数値高騰」の予定が並んでいる。断る勇気はさらさらない。そりゃあ呼ばれるうちが華っていうものだろうし、よしんば断ったとして寂しさのあまり家でたっぷり飲むのではおんなじことだ。せいぜい、休肝日はとるように頑張ろう。日記には「飲酒一日目」「飲酒二日目」、「断酒一日目」などと毎日書き込むようにした。今のところ「断酒二日、三日」が記録されている。ヨシヨシ…。




2013年11月17日日曜日

沖縄ツアー付け足し

 沖縄を訪れた若者のブログに書かれていた感想があった

※沖縄は戦場とかした何て知らない人もいるこの世の中、青い海と青い空だけではない、この場所も皆に知ってもらわなければならないと感じた1日でした。※

 若者だけではない、沖縄の苦難の歴史に触れて知ることが平和を考えるうえでおおきな意味があると思った旅だった。特定秘密法案が強行されれば、「その時代」を招くことになる。そうなってしまっては、沖縄が被ってきたマイナーな歴史を追認することになってしまう。「理由が提示されなくても逮捕」されるようなことになれば、ブログで書きこむことさえ控えなければならないことになる。人権も民主主義もすべてが抑え込まれる社会だ。


 最後に新原ビーチでグラスボートに乗って、海底の魚を鑑賞したが、海底のサンゴは白化が目立った。先ごろNHKの番組で温暖化が原因とみるサンゴの白化現象を取り上げたものがあった。おりしも、温暖化対策での温室ガス削減目標を下げることを閣僚会議で決定した。経済成長ばかりを突出させて生活にかかわる施策はすべて切り刻むカジきりをする安倍内閣は、まだ支持率が高い。

琉球そばとオリオンビール










2013年11月16日土曜日

三日目の沖縄。歴史はキチンとみておくことが大事だと思う。

 平和記念公園はオプションツアーで行く。公園整備が琉球政府時代からされていたという。復帰後は都市公園として整備された。沖縄戦の写真や遺品を飾った平和記念資料館と「平和に礎」「平和記念像」「国立沖縄戦戦没者墓苑」「団体の慰霊塔」がある。沖縄で官民合わせて24万人以上が犠牲となった実相、教訓、平和への願いが織り込まれていた。
1995年に造られた「平和の礎」は、国籍、軍人、民間を問わず沖縄戦で犠牲となった戦没者の氏名が記されている。

 アプラチガマ、ひめゆりの塔・資料館もツアーに含まれていた。270mのガマで沖縄戦末期に陸軍病院の分室として使用されたアプラチガマで、懐中電灯を消して暗闇を体験した。真の闇はいかばかりかと思わされたが、生き延びた女性が、「死臭や切り落とされた手足の運びだし、血や糞尿の臭いの中で生きていられたのは、ガマが闇だったからで、そうでなければ気が狂っていただろうという」と語っているとの話には、およそ考えが及ばない驚きのことだった。






ガマの入り口







2013年11月15日金曜日

首里公園の次は「不屈館」で沖縄の心に触れ、「歌と踊りの交流会」に触れる

 「不屈」は凡人にとっては、辛い表現。多分、実世界にはそうそういるものでない。しかし瀬長亀次郎にはその言葉が100%似合う。
瀬長亀次郎は沖縄人民党で活躍した人。経歴はウィキペディアに端的なのでコピーした。
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1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征する。
戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営する傍らで沖縄人民党書記長となり、1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、準備不足もあり当選者の1割にも満たない得票数で落選。しかし、1952年の第1回立法院議員総選挙では最高得票数でトップ当選を果たす。この選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。
195410月、米軍は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕。たった1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけ、懲役2年の刑の判決をして、再び投獄された(沖縄人民党事件)。19564月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬する。対立候補から選挙妨害を受けるが、まったく保護されない無法選挙を戦うことを余儀なくされたものの、大方の予想を覆し当選を果たす。だが占領軍出資の琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置に遭い市政運営の危機に見舞われるが、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとし、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し当選後は86%にものぼり、最高で97%にもなった。そのおかげで自主財源での市政運営できるようになり危機を脱する。これに対し占領軍と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。しびれを切らした占領軍は1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)1954年の投獄を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対する沖縄県民の絶大な支持を呼んだ。

196712月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年の沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に当選する。以降7期連続当選を果たした。日本共産党に所属し共産党副委員長などを歴任。1990年、政治活動を引退する。2001105日、肺炎で死去。享年94
ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。
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 感心することは多々あるが、瀬長亀次郎が那覇市長になったときの市民の行動は驚くべきものだった。占領軍が補助金と融資を打ち切って、預金凍結までして妨害をした。市民は自主的な納税によって瀬長市長を助ける行動に出た。納税率が最高で97%になったという。自主財源での市政運営できるようになり危機を脱した。こんな出来事は将来もはたしてあるだろうか、まさに驚きの出来事だった。自治体財政を開発などの浪費に使う自治体の長には爪の垢を煎じてやりたい思いがする。


 「沖縄の歌と踊りの交流会」は琉球料理を味わいながらの催しだった。「沖縄参戦音楽研究の芸術学博士」の新城亘氏を中心にした沖縄の文化を披露していただいた。












2013年11月14日木曜日

二日目の行程は東村高江から首里城公園へ。

1429年、尚巴志、三山を統一、琉球王国成立
1609年、島津の琉球侵入
1660年、首里城焼失
1709年、首里城また焼失
1879年、首里城明渡し、琉球王国の崩壊、沖縄県として「誕生」する
1853年、ペリー提督来琉、首里城訪問
1925年、首里城正殿国宝に指定
1945年、沖縄戦により首里城焼失
2000年、北殿で「九州沖縄サミット」城址などが世界遺産に


 首里城は、争いに巻き込まれ焼失を繰り返している。戦後は復元工事が徐々に進められて、近年書院や庭園が一般公開されている。修学旅行の子供たちのにぎやかな声が、響いていた。ここも沖縄決戦の要塞として使われた。時の権力によって支配される歴史をたどった沖縄。いま「基地はいらない」の声が鳴り響く沖縄が、独立国家になるべきという意見も理解できる気がしてきた。














2013年11月13日水曜日

東村高江は子供たちが多い集落

 沖縄本島北部の豊かな森に囲まれた地域がヤンバル(山春)と呼ばれている。地球上でここにしかいないヤンバルクイナ、ノグチゲラなど1000種以上の高等植物や5000種以上の動物が暮らしている。ヤンバルの中にある東村高江は人口約150名で中学生以下が人口の2割を占める子供が多い集落。この隣に7800ヘクタール(東京ドーム1668個分)の米軍北部訓練場がある。ジャングルでの戦闘訓練を目的に1957年に使用開始して、ベトナム戦争でのゲリラ戦の訓練に使われた。ここにはヘリパッド(ヘリコプター離着陸帯)が22か所あり、常に爆音や危険にさらされている。

 そこに新たに6カ所のヘリパッドを、高江集落を取り囲むように建設しようというのが防衛施設庁の動向だ。「基地の整理縮小」の“偽装”工作となる、オスプレイの訓練用に。一番近い民家から400メートルの位置にも。座り込み、監視を続ける人たちは、沖縄県議会と全市町村の「オスプレイ配備反対決議」の意向も受けた活動となっている。「沖縄がベトナム戦争や中東戦争での加担者になっている」という言葉が耳に残る。



「違反者は日本の法律によって罰せられる」の文言で、特定秘密保護法案を連想させられた








2013年11月12日火曜日

辺野古の海は、海の臭いがした

 新基地、V字滑走路を造るなと座り込みが続いている。本土から行って気軽で浅薄な反対の意志などを言うのが恥ずかしく思える活動だ。基地は県外にという仲井真知事とは違って、県議会の決議は「県外・国外」へとの意見書を全会一致で決めている。名護市長は辺野古移転拒否の態度だから、結論ははっきりしているものの、安倍政権はますます「日米安保協力体制」へのめり込んでいる。どんなウラ技を使ってくるものか。秘密保護法案もその一つで、それこそ基地問題にかかわることは「それはヒミツです」ということにしたいのだろう。


 辺野古の海に接してすぐ感じたのは臭いだった。海の臭いがする。足元にはヤドカリがいる。しばらく見ていないからだろうが、感嘆の声があがる。東京湾で見たのは何十年も前だった。これが海なんだよなと、海藻の臭いを感じながら思った。ジュゴンのえさ場を守れとIUCN(国際自然保護連合)が声を上げている。米国連邦地裁に提訴しているが、このことによってV字形沿岸案の実像が日本政府の説明していたのとは全く違った「軍事要塞」であることがわかった。環境現況調査をなんしてもやりたい政府が、調査をいつ強行してい来るのか、そのたびに防衛施設局に抗議し断念させてきた人たちの闘いに敬意のみ。




支援の寄せ書きがいっぱい


基地境をコンクリート塀にしたことで、基地側の砂浜は堆積して高くなっていた。自然はこれだけ微妙に改変する。










2013年11月11日月曜日

オスプレイを見下ろす嘉数(カカジ)高地

 沖縄ツアーで最初に訪れた嘉数(カカジ)台。沖縄上陸の米軍を迎え撃つ最前線の基地とされた嘉数(カカジ)高地。高地と言っても高台。本土決戦の「引き伸ばし」のためにあえてこの場が選ばれた。戦車に体当たりする「肉弾戦」があった。米軍22台の戦車が破壊され、2週間の戦闘だったことが「語り草」となって、評価される向きもある。これ以後の沖縄戦も含めると戦没者は20万人以上。(沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では沖縄戦の日本側死亡者:188136人⇔2013.1.1の三鷹市の人口186,416人)
 二度とあってはならないとする以外に考えようはない。






 この高台から見るオスプレイはキチンと並んで翼をたたんでいた。不幸にして落ちた場合は、本体を傷めないようにバラバラに飛び散るようになっているということだ。宜野湾市の真ん中に堂々と占拠している米軍基地は、占領軍の居座りというのがピッタリしている。





2013年11月10日日曜日

沖縄普天間基地を見る

 沖縄でオスプレイを直に見てみたいと、中野革新懇ツアーに便乗させてもらった。三日間の交流で聞きしに勝る沖縄の歴史に触れた。15年戦争の悲惨な結末とベトナム、中東の戦争に「加担してきた沖縄基地」と、こもごも語られていた。平和の本当の重みは沖縄が一番知っているのかもしれない。本土との温度差もあることも話された。知らなければならないこと、知っておくべきことが沢山あった。

 嘉数高台からみた米軍・普天間基地は、オスプレイが整頓されて鎮座していた。基地の周りには住宅街が取り囲んでいる。これが沖縄の現状なのだと、驚きながら眺めた。

ちょうどオスプレイ駐機場所に日が差した。

ちょっと遠いので、トリミング

真ん中の白いところが普天間基地





2013年11月9日土曜日

誤表示・誤表記、嘘は罪

 「誤表示」というのもなかなか的を得ているとでも思っているのか。要するに偽装の言い換えで逃げちゃおーということだから、正しい日本語表記にはなっていない。身の回りにいくらでも存在しているということが、表に出て広がっているのが愉快だ。けっして愉快なことではないのに、あきれかえってそうとしか言葉が探せない。身の回りには言い逃れでも、軽い嘘でもいくらも転がっているけど、たわいのないことならいい。人を陥れることなんかないことなら、ときたま使わせていただいている。それに、だいたい3人くらいが頭を一斉に下げて「…お詫びします」って判で押したようにやるしぐさも、愉快だよな。あれ、昔の紙芝居を思い出す。「哀レ 会社ノエライ方々ハ 一斉ニ頭ヲ下ゲタノデアリマース」なんちゃって。

 先日亡くなった天野祐吉氏の本を読んでいたら、面白いものが紹介されていた。江戸の小話だ。

~ある男が土用の丑の日にウナギを料理しようと手でつかんだら、ウナギはぬるりと上へ逃げる。で、それをつかまえようと、上へ上へと手をやるうちに、足が地を離れ、あれよあれよといううちに男は空の上に消えてしまった。で、それから一年。帰ってこない男のために仲間たちがカタチばかりの一周忌の法要をしていると、空からヒラヒラ紙切れが落ちてくる。みるとそこには歌が一首、こう書かれていた。“去年(こぞ)のきょううなぎについてのぼりけれ/いまも絶えせず登りこそすれ(他筆御免)”~

 蛇足ながら「他筆御免」は手が離せないから他人に書いてもらったということ。おもわず吹き出してしまう、こういう嘘なら必要な嘘と言ってもいいのかもしれない。こんなに嘘と偽装とが安売りされているのでは、天に登り続けている男から、嘘はこういうものだよと声がかかりそうだ。



誤表示・誤表記いや偽装


  おまけ  「嘘は罪」







2013年11月8日金曜日

病院で暮らした一日

 義父の検査日に合わせて、義母を連れていく。義母の反応が最近おかしいというので、検査をすることで。
 立ち振る舞いで、一つのことに集中できないで、他のことをしてしまうという。それは己とて実感していることなので、そうかなという感じがないでもない。素人目にはわからないから、掛かりつけの医者に依頼して、病院に向かった。

 待っている間に、トイレに行くというので、ちょっと心配で「一人で大丈夫か」と念を押したら、返事をしてさっさと行ってしまった。まあ万一でも外に行くようなことはないだろうと、たかをくくりつつも帰ってくるまでは気がかりだった。MRIを撮って脳神経科に回された。  しばらく待たされてから、レントゲンとCTスキャンを追加で検査しろというので、最初の検査室に戻った。

 今度は自分がトイレに行きたくなって、用を足してから戻ると、義母の姿がない。検査室に入ったらしい。持って行った本もないので、どこかへ?と一瞬驚いた。ところが、レントゲン室から、検査番号の呼び出しがかかってしまった。いやこれは、と慌てかけたが、そのとき、義母はすでにCTスキャン検査室に入っていた。CTスキャンがあることを、レントゲン検査担当の人が承知していなかったらしくて、「ああ今CTスキャンをしているんですね」と言ったので、行く先がわかって安心した。

 検査がすぐ終わって、待合場所の椅子に腰かけてさて今度はレントゲン室だなと順番を待っていたら、義母が「レントゲンは撮ったよ」と言う。そこでまた「あれこれは」と“異変”を感じてしまった。レントゲン室はCTスキャン室と違うし、さっき呼び出されているからそんなことはないと、話をした。ところが、いつまでたっても呼ばれないから、レントゲン検査室の人に声をかけてどうなっているのかと話して、「検査書類」を見せるとレントゲン検査にはチェックが入っている。念のためにCTスキャン室に照会してくれたら、済んでいるとのこと。CTスキャン室でレントゲン検査もできるなんて…。しかし、義母を疑うことになってしまって…。


 だから、検査の結果を聞いときには驚いた。脳梗塞があると写真を見せられた。大きくはないが確かに素人目にもはっきり見える。ちょうど義父が検査待ちになっているあいだに、ツレアイも説明を聞いた。即入院で点滴をするということで、手続きを済ませた。義父の検査のほうは、検査中に血圧が下がってしまって、帰るまでに点滴を打って回復させた。検査用の薬が原因と言うが、朝から何も食べずにいるわけだから、なんでもなくても下がりそうだ。義母を置いて、病院から出たときには暗くなりかけていた。





2013年11月7日木曜日

釣り好きが逝く

 木更津港にイワシが寄っていると、聞いて出かけた浜ちゃん。釣れて釣れてどうしようもなかったという。アミコマセを買い足して、また釣った。組合の幹部をずっとしていて、釣りの会の行事にも可能な時には参加してくれた。組合運動でも釣りのうまさと調理のうまさを生かして、活躍していた。釣りの道具は安物でも「弘法筆を選ばす」、仲間を集めては熱心に釣りに行っていた。だいたいダントツの腕前だった。

 来年は組合の仕事を退いて、これから先楽しめると喜んでいた。まだ、65歳をすぎたところだった。釣りの会では若手に属する人だ。腎臓を傷めて人工透析をする合間に、先月13日には釣りの会の行事で青野川にハゼ釣り一泊旅行に行った。そのとき、魚籠を持ち上げて、「これだけ釣った」と重そうに見せてくれたのが最後だった。木更津のイワシを思う存分釣った翌日に逝ってしまった。あまりに突然に。合掌。

2013年11月6日水曜日

秋景色、前に行ったところの写真を見てまた楽しむ

 無機質と幾何学の風合ばかりの都市から抜け出して、まだら模様の紅葉を探しに行くのは、楽しいものだ。そういう受け止め方ができるようになったのは、カメラを構えるようになってからだ。目先の雑多な小仕事から離れて、一年の周期の最期の瞬間にさしかかる輝きを眺めるのは楽しい。人が創り上げるものでも素晴らしいものはあるのだろうけど、自然が織りなすものは謙虚でありながら、派手な主張を押し出す。輝きの瞬間は見てやらなくてはいけないだろう。いくら鑑賞してもまた見たいという気持ちが湧きてくる。先を考えれば、物足りない方が励みにはなるかもしれない。また、行こうと先輩の話が飛び込んでいる。

2007年11月25日奈良

















2013年11月5日火曜日

実りの秋から紅葉へ

 写真の整理をしていて、写真が沢山出てきた。写真講座でカレンダーを造ることになって、選び出したまではよかったが、講座出席時間がギリギリになってしまって、テーマにまとまりがなくて、講師から「なんだこれ、まあいいか」と言われてしまった。自分もそれを聞きながら、そうだなと見直して「ハハハ」と笑ってしまった。

 1月から12月までで、撮った時期の写真を並べただけのものだったから、そんなものだろう。なんとなく人臭さみたいなイメージだけは気にしたつもりだったが、一貫性のないものになってしまった。他のものでも数だけはたくさんあるから選び出しをやり直して、もう一度ガッチリ取り組んでやろうかと、取り掛かった。奈良の写真も出てきて、まだまとめていないのを思い出した。エッセイ風にと思ってから大分放っておいたから、もう記憶が薄れてダメかもしれない。
2007年11月24日













2013年11月4日月曜日

シーベルト(Sv)とベクレル(Bq)

先日の学習会で、シーベルトとベクレルについての資料がある。
放射線による人体への影響度合いを表す単位を「シーベルト(Sv)」といい、放射性物質が放射線を出す能力を表す単位が「ベクレル(Bq)」だということだ。

放射性物質には様々な種類があって、放射性物質によって、放出される放射線の種類やエネルギーの大きさが異なるために、人体が受ける影響は異なる。放射線が人体に与える影響は、放射性物質の放射能量(ベクレル)の大小を比較するのではなく、放射線の種類やエネルギーの大きさ、放射線を受ける身体の部位なども考慮した数値(シーベルト)で比較する必要があるということだと説明されている。


お金に例えてみると

もう一つスッキリしないが、核実験やチェルノブイリ、スリーマイル島の事故以降で、それまで自然界で検出されなかった放射能汚染が出始め、癌発病に至っていることははっきりしている。因果関係が立証されていないと一方で言いながら、どこまでならいいという基準はあっても、意味をなさない。100ベクレル以下が安全だという根拠はどこにもない。







2013年11月3日日曜日

「原発事故による海洋汚染と海産物」の学習会があった。

川崎健氏(東北大学名誉教授)の講演だった。海産物は、日ごろから身近に感じているものなので、どんな状況にあるのかと将来どうなっていくかが知りたいと思って参加してみた。かなり膨大な内容を一時間半ばかりで、飛ばした話だったので、つかみきれないが、資料でいただいたものがわかり易い説明だったので、書き抜きしてみた。

海水のモニタリング調査
(1)   第一原発のごく近くの測定ポイントでは、汚染水を放出した事故直後にはセシウム137の濃度は100000Bq/Lに達したが、その後は急速に低下して、20135月には1Bq/L前後である。
(2)   沖合の測定ポイントでは、20119月には0.01で原発周辺に比べればかなり低いが、その後低下している。
(3)   事故以前の福島県沖では、1976年当時は0.0060.008Bq/L程度であったが、1998年~2008年には、0.002程度に下がっている。1976年~1987年当時高かったのは、それまでの大気中核実験、1979年のスリーマイル島事故、1986年のチェルノブイリ事故などの影響だと思われる。沖合水域の現状は、福島事故以前に近い。これは拡散するからである。
海底土のモニタリング調査
(1)   原発にごく近い測定ポイントではセシウム137の濃度は、20124月には1000Bq/Kg程度であったが、20135月には週100Bq/Kgに低下している。原発からかなり南でも、数十Bq/Kgある。
(2)   沖合の測定ポイントでは場所によりばらつきがあるが、現在はセシウム137で数百Bq/Kg5Bq/Kgである。
(3)   福島県・茨城県沖合では、歴史的にみると1983年以後、セシウムで5Bq/Kg以下であったが、現状はそれよりはるかに高い。特にこの点が海水との違いで、放射性物質が海底土に吸着されているからである。
水産生物の種別の汚染経過
(1)   表層魚類の汚染度は低い。
(2)   底生魚は生息水深100m以深のものは、汚染度が低い。
(3)   ごく浅いところに生息する貝類は福島沿岸では事故以後強く汚染されたが、その後は急速に低下した。こらは、海水の汚染濃度が低下したためである。
(4)   海藻類も同様である。
(5)   メバル類(100m以浅)は汚染度が高いが、2013年に入って低下傾向である。
(6)   ウニ類は事故後高い汚染を示したが、その後急速に低下している。これは、食物が海藻だからである。
(7)   スズキ(中層魚)は、高い汚染が続いている。これは底生のイカナゴなどを食べているからであろう。
(8)   水深100m以浅に生息しているカレイ類は汚染度が高い。海底では浅いところの汚染が強い。また、これらは汚染された底生無脊椎動物(エビ、カニ、ゴカイ、ワレカラ)を食べている。しかし、今年になって汚染度が低下してきている。低下の理由は(1)放射能の減衰と(2)生理的排出である。
(9)   底層に生息するメバル類も、同様な傾向を示す。
(10)   淡水のイワナ・ヤマメは強く汚染されたが、今年に入って汚染度は低下している。
海水魚と淡水魚の汚染機構の違い
・  海水魚は汚染物質を排出するが、淡水魚は蓄積する。
~水産生物は、放射性セシウムをカリウムなど他の塩類と区別できずに環境水(海水・淡水)や餌から体内に取り込み、自然に体外へ排出。
~海水魚は、体の中の塩類を排出させる機能が働くことから、海水の放射性セシウム濃度が低下すれば、魚対中の放射性セシウム濃度も徐々に低下。
~淡水魚は、体内の塩類を保持しようとする機能が働くことから、海水魚よりも放射性セシウムを排出しづらい。
~無脊椎動物は、塩類が海水と体の中を自由に行き来しているような状態なので、海水中の放射性セシウム濃度が低下するとすぐに体内の放射性セシウム濃度が低下。

 講演は、福島沿岸の海水の放射能濃度が下がらないのは流れ出ているということが言えるということも説明された。(福島第一原発の周辺20135月に1ベクレルであるが、およそ一年前からこの濃度であり、事故前の2008年には0.002だったことで推定される)

まとめとして①日常生活では、正しい科学的知識と情報を持って、科学的に冷静に対処する②政府に対して正しい情報の開示と事故原発システムの環境からの完全な隔離を要求することを求めようということだった。