2015年9月8日火曜日

バリウム検査の後騒動

31日はバリウム検査をすることになっていた。隣の学校の体育館に行けばよいので、このところそこでことを済ませるようにしている。終わってから下剤を余分にもらい、コンビニに寄って牛乳を仕入れてきた。家に向かう途中で「悪い人」に出会ってしまった。悪い人は釣に誘ってくれる人だし、飲み屋にも誘ってくれる人なので、ほんとはいい人なのだ。ハゼ釣りに行きたいねと言うし、飲むに行こうかといわれると、バリウム飲んだばかりだからと無下に断るわけにはいかない。それに先延ばしするとどうもいつになるかわからない。と、へ理屈を言付けて、5時にバス停で会うことにした。

駅に向かって二人で北口の路地を歩いているときに、「良い人」の知り合いと遭遇した。一緒に行っちゃおうということで、前に一度行ったウナギ屋さんの暖簾をくぐった。新しい人との出会いは刺激的で楽しい。それに3人になると盛り上がり具合が違うのか、ひとしきりの飲食の末にカラオケに行くと言い出した。もちろん嫌いではないから、ついて行くことになった。

そう遅くなったわけでもなく、いつもどおり風呂にはいってから寝たのだが、夜半になって腹が痛くなった。尋常な痛さでなくて汗まででてきた。2時間ほどで収まった後、朝方通じがありバリウムが一部出たという感じだった。ところがそのあと跡が便秘で出てこない。詰まってしまったのかなという想像がだんだん強くなる。

腹が張ってくるし、4日からはイワナ釣りの計画があるので、困ったことだと思い悩んだ末、3日に医者に行くことにした。家の近くで行こうと思った胃腸科は木曜日が休みということで家から近いと言うメリットは生かせなかった。いつも言っている診療所へ電話をすると内科対応でということで、そこでレントゲンを撮ってしらべてもらったら、バリウムはない。盲腸にわずかに入り込んでいるだけだった。下剤を貰って帰ったが、下剤の使用方法が上手くできずにこれも難渋した。騒ぎが収まったのは岩手にイワナ釣りに行く朝、通じが付いたときだった。これで落ち着いて旅に出かけられると、前日支度した釣り道具をキャリアバックに詰め込んだ。

 バリウム飲んだら酒飲むなとは説明書きにあるが、医者に行ったときには「飲んでもいいんですけどね」との話だった。バリウムが残っていないという検査結果のうれしさに、どうしてか聞いてみる気がそのとき起きなかったが、あとで、聞いておけばよかったと反省した。 















2015年9月4日金曜日

8.30国会10万人行動は参加者3万人の怪

31日の国会前に、息子に声を掛けたら行くと言うので一緒に出掛ける。1時を少し回ったところなのに、国会議事堂前の出口は人でもう一杯。多くの人が集まるだろうとは思ったが、通常見たことないような人波だった。国会議事堂へ向かう出口は早々と規制がかかって、進めない。この「戦争法案」に反対する集会は、弁護士の人たちが「過剰警備」を止めるように申しいれしているらしい。警察が歩道を狭めたりしていることを体験しているので、まあそうだろうと列につながりはするが、延々と人が続いていて、なかなか前には進めない。

国会前には釣りの仲間も来ているはずだが、無理かもしれないと途中電話をしてみると、議事堂前は「解放」されて人が入ってきていると言う。それならばと、気を取り直して息子とはぐれないようにお互いに確認しながら歩く。結局議事堂の周りを一周して、議事堂前面の後部にたどり着いた。あとからわかったが、国会前にはいかせないという規制を敷いているのだった。議事堂が見える車道にはすでに多くの人が入っているのが見えるが、なお警察官が規制のテープを持ち出して入れさせないように図っていた。規制をかいくぐって警官の脇をすり抜けた。「規制は止めろ、止めた方が安全だ」という声が聞こえていた。車道を国会前にむかって上り、すぐに渓流釣り9条の会の姿が見えた。

警察発表で3万人ということに参加した方からは批判の声が上がっている。産経新聞がヘリで撮った写真によって、九つに分けた国会前の写真によってのカウントで3万人ちょっとだったと報道した。警察発表と大差ない数でハハーンとその気脈を感じた。不思議なことに、NETと新聞を見る限り(全部見たわけでない)国会前以外の写真が報道されていないのが不思議だ。NHKの報道を見て、近くの駅での「出口調査」をやればいいのになどと馬鹿なことを思ったが、周辺の駅に照会して参加者を割り出した人がいた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
データの取り方は
1-主に国会前に行くために利用する駅は国会議事堂前駅、永田町駅、霞ヶ関駅、溜池山王駅の4駅と思われるので、その駅を検証データにした
2-各駅の自動改札の改札出た人のカウンターデータを開示して頂いた
3-雨の日は通常の1割強の乗降数が減るとのなんで、データを最終的に通常の改札出た方の1割くらいのプラスをする

4-乗降数でみるのではなく、駅改札を出た人数のみのカウントをする
※以上4つの条件で割り出しました。
①東京メトロ 国会議事堂前駅(改札出た人)
通常日曜日1.900人程度 30日当日25.621
増減数:23.721
②東京メトロ 永田町駅(改札出た人)
通常日曜日7.000人 30日当日23.430
増減数:16.430
③東京メトロ 霞が関駅(改札出た人)
通常日曜日(日比谷線・丸ノ内線・千代田線)4.300人) 30日当日28.442
増減数:24.42
④東京メトロ 溜池山王駅(改札出た人)
通常日曜日7.000人 30日当日9.666
増減数:2.666
増減数だけの合計は66.959でした。
この4駅の改札出た全体人数は87.159
通常日曜日の利用者が2万人ほどに対してこの数字という事がわかる。これがデモの影響であるという事は間違いない。これに悪天候要因で通常は1割強減るという事ですから、それを加味すれば、増減数はこれに合わせて2千人ですかね。
結論、駅の乗降数という見方では12万人には至らないものの、いずれにしても3万人の参加者ということではなかったです。
この見方では7万人以上の参加者というデータは見て取れます。
これに赤坂見附駅(かたくなにデータ開示拒否された)、赤坂駅(3万数千人改札出る方利用客数)まで含めれば12万人は超えるんですかね。

規制が厳しかったんで、最寄り駅降りてから混雑に圧倒されて違う駅から出た方がよいと考えた方も居られたでしょうが、それほど大きな数字になるとは思えませんが、全くの排除もできません。
また、電車以外の交通手段も考えられますがそれは予測不可能なんで加味してません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 他方、総がかり行動実行委員会が配布したプラカードは10万という話もあるから、3万人というのはいかがなものかということだろう。今週の週刊新潮には「12万人はねつ造」まがいの記事がある。ここまでくると、事実を捻じ曲げた意図で暗躍している連中がいるとを実感する。









2015年8月30日日曜日

雨の中武者行列と山車が行きかう

 15日、金町の朝9時半から本祭りが動き始める。車で30分ほどの新庄のホテルから向かう途中、つい田んぼの景色に囚われて時間を食ってしまった。

 出発時間内に間に合ったつもりが、雨が本降りになってしまったので、駐車場で濡れないように支度している間に武者行列が動き始めていた。早足で追いかけるものの、どう撮るかもさだまらないままシャッターだけは押した。行列の皆さんも雨の中大変な思いをしているようだった。

 山車の方がどう動くのかも確かめる暇はなかったから、道端の人に確かめるとその場を通ることになっているとのことでひとまず安心。金山川にかかる「きごころ橋」で戻ってきた武者行列と山車が行き違いするが、その様子を見ながらまた右往左往してしまった。運よく山車の行進が休憩になって止まり、担い手の子供たちや若者が穏やかな動きになっていたのを見計らって、中に入って撮らせてもらうことにした。

 また動き出した山車を追って先に歩いてみたが、そのころから青空が見えてきた。しかし出だしから焦ってしまったのが後を引いているようで、なにかもう一つ物足りない感じが残った。








2015年8月29日土曜日

新庄で落ち合って、金山町の宵祭りへ。

814日に先輩と新庄で落ち合うのだが、こちらは盛岡から新幹線に乗り、大曲で奥羽本線上り列車に乗り込むことになる。ホームから見える情景を眺めながら、知らない街を素通りするのはもったいない気がするが、そんな時間の余裕はない。来た方角とは反対に向かって、本当に大曲りをしてディーゼルカーが発車する。車音は昔ほどうるさくないのだろうか気にならなかった。3両だかの編成でトイレ付、列車が駅に着くと自分でボタンを押してドアを開ける。乗り込んだ人は備え付けの機械から「切符」を受け取る。田んぼのイネに少し穂が出て、うっすらと黄色づいている景色をゆったりと眺めながら、新幹線では味わえない「車窓から」を楽しんだ。

 レンタカーを借りる続きを、相方がくる前に済ませ、宵祭りまでには十分な時間を、早めに金町に入って祭りの前の雰囲気をカメラに収めようと歩きまわった。それらしき担ぎ手でない地元の人々、若者が中心に担う祭りは、有名な祭りの担ぎ手の様子とちがって初々しくて頼もしい。ところが、あいにく夕方から雨模様の様子ということで、宵祭りの山車は中止になってしまった。せっかく造り上げた山車の飾りを、翌日の本祭りの前に台無しにしてしまうわけにはいかない。山車の前でくつろぐ若者は、宵祭りにでかける目標がなくなっても、屈託のない笑顔でくつろいでいた。












2015年8月28日金曜日

金山町に入る峠は雨がちらつく

26日、共立診療所へ行って検査結果を聞いた。心臓は、CT検査も心エコー検査ともに明らかな異常はないという結果だった。背中の痛みが出ていたのは、内臓からくる場合もあると勝手に心配していたのだが、数日前から枕の高さを変えたら不思議と痛みがなくなってきた。その旨を医師に説明をしたら、「そうなんでしょうね」と反ってきたので、この場はその結論で置くことにした。ピロリ菌の「ハイリスク」のほうは31日にバリウム検査をした後にということで、胃カメラ検査は逃れられそうもない。

いつも通りの血圧と尿酸値を下げる薬をもらって、いくぶん軽くなった気分で6146歩をウォーキングして家に戻った。体調が悪かったのが影響したのか、身体の動きと頭の動きがよくなくて、ブログの書き込みも、ネタがあるのにもかかわらず、ままならない日が続く。だからということになるのか、一日の時間がたつのがやけに早い。「明日があるさ」と仕掛けなければならないことも後回しになっていく。

山形県金山町と肘折温泉の撮影旅の写真整理が出来上がったし、岩手山麓の親父の家訪問から一週間ほどの間の後日日誌もまとまったので、撮った写真の編集(現像)をしながら、余韻を楽しんでいる。いい写真が撮れているだろうか。

金山町に入る峠は雨がチラつく





2015年8月25日火曜日

これじゃ身体に良いわけはないか。

2か月前に写真展をした結果、写真をもう少し真面目に取り組んだ方がいいんじゃないかという気になっていた。撮りためた写真の整理も必要だし、その方は「デジタル研究科」のおかげで、ノウハウを生かして相当整理できてきた。48000枚の写真をパソコンの写真編集ソフトを使って大分できてきたし、しかしそうするうちに、これまでのモノがなんと詰まらなくて未熟なものが多いのかという反省に迫られた。8年前にやった写真展の「金山町」も、もっとキチンと撮りたいという思いも湧いてきていた。

 金山町には何回かその後も通って、自分だけでなく同行の人からもよいところだと言われている。気に入ったところは何回も撮る必要はある。なにか別の視点に突き当たればいい写真に出会えるはず。そんなことをしばらく前に話をしていたら、行こうかという話になった。

岩手に行ったときに山形に回ってと心づもりをしていたのに、連絡がなかったので不成立かと思っていたら、おっかけ連絡があって、是非にということになった。急きょ計画を練って、14日に新庄で落ち合うことにした。そうなると、「休肝日増」作戦にも影響してくる。写真撮影の楽しみは一日の締めにあれやこれやと、アルコールを摂りながらの談義がなければならない。なにも写真撮影に限ったことではないだろうが、それで楽しみが倍増する。

 「重大事態対処」がまだ分からない間をいいことにして、「飲み得」もいいと勝手なことを言って、今回は二人になった先輩と、それなりのアルコールを胃袋にいれて、先輩と談義に励んだ。重たいカメラを担いでも、背中の痛みを圧して動けはするのだからまだ、大丈夫と自分を慰めながら。

2015年8月24日月曜日

健康診断の結果が送られてきて…。

健康診断で今年辺りは、何か引っ掛かりそうと、なにげなく思っていた。当たってもらいたくなかった結果を見て、いよいよ高齢者の有資格者に近づいてきたと自覚させられた。縦隔脊柱・新陰影拡大、ピロリ菌の疑い、肝機能障害と三点セットで精密検査をしろとの通知だった。肝臓障害は身勝手な「数値が少し高いだけ」との解釈で、いい気になっていたし、アルコール量を減らすことで下がるということで、甘く見ていた結果だった。

いつもお世話になっている医師に相談しにいって、心臓のエコー検査をすることになり、あわせて最近痛みが出ている背中のCTスキャンをしてもらうことになった。肝臓と尿酸値は、アルコール節酒で下げることでいくとして、ピロリ菌は胃癌の原因との脅かしもあり、カメラを飲めと言う。今は楽になっていると聞いているが、なるべくなら避けたい気持ち。8月末にバリウム検査の予約をしてあったので、その後でということで、当面はしのげた。


それより、背中の痛みが出ていることが気になっていてその程度が、日常の動作で「アイタタ」という感じだから、この原因追及はしなくちゃならない。まあ、歳なのだからしかたがないかなと思うところもあるが、今は妙なことでないことを祈るのみ。結果は3週間後ということで、その間にちょうど岩手の親父のところに行ってくることになっていた。従妹が山形に帰って、墓参りをする間親父に付き合わなくてはならない。親父もこの間までは一緒に行って、「家」の墓に行っていたが、今はもう動くのもやっかいらしい。最近は食べるものも少なくなって、何を食べさせたらいいのかという苦労があると従妹が言う。東京の年寄りと同じようだ。自分もいずれそういうことになるのだろうと、チラリと思いながら作ってくれた煮物を中心の数日を過ごした。






2015年8月20日木曜日

馬路村の「フェスティバル魚梁瀬」

2回目になった馬路村は、旅館の前に川があり、深いところがないので子供連れには人気のようだ。子供ばかりでなく親の方も水に浸かって楽しんでいる。ここなら、川の大きさが適当で目が行き届く。夏の旅は、かつては涼しい東北方面が多かった。家族そろって行った若いころは、西の方面は少なかった。だから、暑いけれども知らない地への旅は魅力的な感じがある。
前回とその前のブログは、現地からスマホでアップしたものだったが、作業がやりにくい。パソコンを使った編集とは違って、思ったように表示できないようだ。スマホも小さなパソコンと同じように使える点は利便ではあるが、パソコンと同じように使うのは難しいところもある。

スマホの「データの使用料」が料金に跳ね返るので、Wifiの通じないところでは安心して使うことができない。通常は家のパソコンの無線LANWifi)から電波を取っているので、使用料は多くはならないが、外で使用すると見る間に増えていく。これでは「歩きながらのスマホ」などどれだけの料金を払っているだろうか。まず10000円は下らないだろう。東京の(日本の)Wifi事情は、その使用可能箇所が少なくて、来日した観光客には評判が悪いという。オリンピックまでには増加させると言うが、日本のこの手の業者も利用者に還元することに力を入れてもらいたいものだ。


31日の魚梁瀬の祭りのとき、小ぢんまりとした村の雰囲気と、若者の姿をカメラに捉えたので旅館宛に送った。








2015年8月12日水曜日

馬路村の釣果

  馬路村では、Uさんと鮎釣りをやるのが目的のひとつ。とはいっても、自力の見よう見まねなのだから、楽しみにとなるのかの話。ぎこちなく仕掛けをつけた途端に風で絡んでしまった。竿を操るのも、泳がせるつもりのオトリにどういう効果になっているのか、さっぱり想像てきない。6尾を確保できたのが、なによりではあったが、釣り上げた嬉しさはもうひとつ足りない。

  釣りは、アメゴも狙いにしているものが、昨年同様入れがかりになるのは、カワムツだけ。今回はサシを用意していったから、おしげなく使えた。途中から唐揚げにして食べてみようと、「確保」にかえて、30尾ほど旅館に頼んで揚げてもらった。アメゴや鮎には及ばないが、思ったよりいけて収穫だった。この安田川は、5年ほどまえから、鮎が少なくなって「近自然工法」による河川改修をしているとか。山が荒れたことが原因でとのことで、この地も環境破壊にさらされていると、らちがいでないこと を、思い知らされた。



"2015.8.1高知県馬路村魚梁瀬「フェスティバル魚梁瀬」の花火" を YouTube で見る

 爺さんが、ショートスティーにいって、体調が悪くてまた入院になった。入院したのは併設されている場所にある病院で、移動は大事にはならない。連れ合いが、お婆ちゃんを連れて、息抜きに出かけていたが、以前にもあったことなので、要領は承知していた。入れ替わりにこちらは馬路温泉にでかけた。二回目の訪問になった馬路村は柚子の里として知られ、人口が1000人ほどという。温泉周辺を廻ると、村をあげての取り組みを、身近に感じることができる。昨年につづいての利用で、従業員さんとも顔見知りになり、馬路村の奥から通ってくるその若者は、ちょうど祭の日であることを教えてくれた。話す言葉のの端々に郷土の思いを感じて、勧めに従ってでかけてみることにした。20分ほど走って着いた山あいの公園に、300人くらいの人が、広げられたシートに座って、舞台の出し物に喝采をおくっていた。出演した保育園の子供たちや、若者のバンドか盛り上げていたが、夕方の陽が落ちていくときのシチェーションは、昔何処かであったかなと、懐かしい想いをさせてくれた。奥まった地で、お年寄りが多いのかと思ったら、赤ちゃんをつれたママさんや若者が多くて、村の息吹きを感じさせてもらった。

2015年8月6日木曜日

二つの原爆投下でVサイン??

 いわゆる勝利を表するチョキのこと。第2次大戦のときのイギリス首相チャーチルが、ヴィクトリー勝利を現すVサインを出すのがお得意で、原爆投下の話を聞いたチャーチルが、得意のVサインをしたと言う話。これを見た記者が「勝利のVサインですね」と質問したところ、「いや、これは平和、ピースのサインだ」「どういう意味ですか?」「世界の平和は、この二本、広島と長崎によってもたらされる」と答えたという。以後、勝利のVサインが、平和のサインともなったとか。

 これが事実と言う前提だが、広島、長崎の原爆投下によって、Vサイン=ピース・平和が表されたということなら、日本人としてはそのまま飲み込むには抵抗がある。核実験を人類に初めて使ってみた行為が、平和のサインとされては日本にとってはたまらない。その後、泥沼になってきたベトナム戦争に行くのはイヤだ、という若者の「早く平和な世界を」というアメリカ政府に対する反抗のサインということでも使われたそうだから、それは平和を望むという意味にはとれないことはない。スポーツ競技でもよく使われることだが、このポーズはカメラの前にたったとき、若者のなかで“一般化、普遍化”している。しかしVサインの持つ意味はそれなりの意味と歴史をもつとなると、簡単に使えないことになる。

 カメラの前のポーズがVサインという定型的な恰好は、こんな意味合いを取り込んだものだろうか。今風のこのポーズの理解は楽しさと喜びの表現なのだそうだ。いささか浅薄なことだとも言えそうだ。さりとてこのワンパターンの他にどういうものがあるかということは、わが年代よりも若者の方が身に着けていることでもある。また、Vサインは、百年戦争のときイングランド軍の弓兵が、敵であるフランス軍を挑発するサインとして使用したのが発祥という説もある。平和と戦争を表象するもの、双方にかかわるVサインとは妙なものだ。
 1948年(昭和23年)に建てられた
 現在のもの(左側)

 8月6日のヒロシマに続けて、長崎に落とされた原子爆弾の「原子爆弾落下中心地の標」が1948年に長崎市によって設置された。この写真をどういうわけか父が持っていた。8年後に現在の形状に変え、1968年には表面を御影石に張り替えたとのこと。

 1996年に「撤去してモニュメントに」との計画が起きたが、当然批判もありこれは断念した。現在のものも「原子爆弾落下中心地之標 地上500米にて炸裂」と表してあった当初の木製のものよりは、現実味が薄れている。「風化」を能動的に働きかける輩もいることだろう。この地が平和記念公園でなく、平和公園と称していることも歴史の重みを感じさせることで、人類の生存にかかわる負の歴史を薄めたり風化させてはならない。

ウィキペディアから
・1948年(昭和23年) - 市が、盛り土の上に木製の標柱を設置。「原子爆弾落下中心地之標 地上500米にて炸裂」の表示。
・1956年(昭和31年)3月 - 三角形の鉄筋にを蛇紋石張り付けた現在の形状に。デザインは松雪好修。高さ6.5メートル。
・1968年(昭和43年) - 表面を黒御影石に張り替え、現在の姿に。
・1996年(平成8年) - 中心地碑を撤去して、新たなモニュメントを建立する計画が浮上、問題化する。撤去してその跡地には被爆50周年記念事業碑(母子像)を建立する予定であったが、撤去計画を断念。



2015年8月4日火曜日

新豊洲市場のサギは大丈夫?


 新豊洲市場を見ているうちに、建設場所から流れ出ている水路

で、シラサギが餌をついばんでいるのが見えた。橋の上からこち

らが顔を出したので、一度は警戒して飛んで行ったのだが、すぐ

戻ってきてまた同じ動作をしている。よほどいい餌がいるのだろ

と思ったが、視認するのは無理だった。なにか生きている餌に

いないが、かの建設中のところから流れ出ているものだから、

題の六価クロムだのシアンだのと言う有害物質の影響はない

だろうか。半体が白い鷺と流れ込む黄土色の水がなんとも、異

様な色だった。













2015年8月2日日曜日

東京の公共事業「新豊洲市場」ここにもあり

 新国立競技場の「白紙見直し」という前代未聞の「良い」政治がおこなわれて、民主主義とはかくたるものと、少しだけ評価していいのかという具合になった。でも、これまでも「凍結」という言葉も活躍して、時が過ぎればまた復活などということは、いくらでもあった。公共事業が大手を振っている時代はどうみても終わっているわけだから、そういう意味での宿題もこれまた、たまっているわけだ。しかし八ツ場ダムなどは、中止と継続がもてあそばれて、住民同士の亀裂を残すようにまでになってしまった。

 どこもかしこも、山を削り川を壊し「新しい町」を創造するという美名がまだまかり通るようで、「戦争法案」だけでない、後ろ暗い政治も絶対許さないということに高まるべきだと思うし、早晩射程距離に入ってくるのではないかと期待したい。

 新豊洲市場の建設が急ピッチで進められている。一度は「必要ないと」と結論を持った者が、一知事の気まぐれで再浮上してきたという、旧の場所でいいよとしていた多くの意向を無視して、すすめた馬鹿なことといってもいいのだろう。先日、建設中の場所を見てきた。膨大な建設地域に大量の鉄材やら建設機材が配置されていた。建設における費用の膨大さも実感したが、東日本の震災復興に比べたら、「どれだけ」のムダなことと改めて想うところだった。














2015年7月30日木曜日

高齢化社会の真っただ中

 義父をショートスティ―に、本人の状態を少し心配をしながら預けたのだが、入所した翌日には、足の指の爪が剥がれたとか腕に傷をつけたとかと、連日連絡があり処置したこという連絡があった。説明を聞いて、そんなに大事ではないなと思えたので、そう心配もせずにいた。本人の身体の動きはますます悪くなっていることもあって、介護もなかなか大変なのだろうとは思う。家にいるときのような動かし方とはやっぱり違うのだろうと思いつつも、もうちょっと丁寧にと率直に感じるところもある。

 そしたら今日は、尿の出が悪くて呼吸も苦しそうなので、入院して膀胱の炎症対策と酸素吸入をさせたほうがいいという連絡があった。病院を併設しているのでそこでよいかどうか、その了解をとのことだった。「ほかの病院に行きますか?」と言外に言われているようであったが、こういうとき「ほかに入院させます」という選択肢があるのだろうかと余計なことを考える。以前にもこれに類することは経験済みだから、それでお願いするということになった。隣が病院なので、施設も移動するのはわけない。保険証やら保証金やらの準備をして病院に行き、入院手続きを済ませてから、看護士さんに本人の状態と身の回りのあれこれを説明し、処遇の仕方の説明を受けた。何回もこういう場面があったなと思いながら、受付で借りた手押し車で荷物を施設から移動させて、「足りないものは購入してください」という言葉を思い出しながら、歯磨き粉はありましたよ」と看護士さんに伝えた。

 事業としてのことだから、収益性を重んじることを否定はできないが、最初に8000円の部屋でと言っていたものが、二回目の電話では15000円だったのですがいいですかと言われて、じゃ止めますっていえるものか。言葉は悪いが足元を見られたようで釈然としない。荷物を運びこんでから、入所施設で準備したティッシュを使おうとしたら、これは使用しないで病院の方で準備したものを使ってくださいと言っていた。(たぶんこれも有料サービスのなかにあるものなのだろう)高齢者の行く先は己の行く先であり、体験する何事もこれでいいのかいの思いを増やしてくれる。




2015年7月27日月曜日

「民主主義ってなんだ!なんだ!」「民主主義ってなんだ!これだ!」の声 国会前に響く

 国会前の集会に行って、若者たちの「戦争、いらない!、アベはやめろ!」の唱和に共感しながら加わった。目下の所属のつりの会にさえ、行動参加の気持ちがあってのことなので、なんの得があるわけでないのに馳せ参じる。この「得」とは「9条を守って、戦争の道にいかない」という得ではない。「金を貰って若者がかき集められているという根も葉もないことを言いふらす連中」の得という意味だ。特に交流サイト(Facsbook,Twitter)に飛び交っている言葉に、じっとしていられないという気分が引き出される。日を追うごとに安倍首相への批判が広がっていく。そんな気持ちで全国から国会前に向けて単独で来る人もいる。こういう体験はいままでに感じた記憶がない。

 採決を強行したことによって支持率が30%台までに減ってきているが、正直なところまだ支持がそれだけあるということが信じられない。アンケートの撮り方によるものとも思うが、昨日のYahoo関連の指示。不支持のアンケートでも50%が指示というものもあった。ネット右翼や日本会議の「取組み=ネット対策」も当然考えられる。「連休明けたら忘れる」などと言われたのではそうはいかない。そうはいかない流れが連日のパレード・集会に結びついている。

 新国立競技場の白紙見直し(?)がいわれて、連日にぎやかにワイドショーで取り上げているけれども、支持回復のためのものと誰でもが思う。飛び出してくる「2500億円が出せないのかね」というのが本音なのだろう。言うことなすこと自民党が劣化していると思わせるのに十分。

 「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」が"文部科学省、日本スポーツ振興センター: 神宮外苑の青空と銀杏並木の風景を守ろう!巨額の建設費をかけない、いまある国立競技場を直して使おう!"NET署名を打ち出したのが一昨年(2013年の12月頃)だった。


 「…未来へわたす会」は「最優秀案は、1300億円という予算をクリアしておらず、このまま建てると3000億円になるという試算が出ています。」とすでに指摘していた。テレビなり新聞なりがまともに取り上げてきていれば、もっと早くメインの問題になったことだろう。一年半かかって、マスコミの中心話題になってきたのは、圧倒的に議席をせしめている自民党の政権下であっても、有権者の意向に沿わなければならない状況になってきた。

2013.12.25



 

伊東豊雄氏「半額で工事できる」国立競技場の改修案発表

(2014/05/26 に公開)映像16分17秒













2015年7月19日日曜日

連休で忘れるというふざけた話が通用するはずはない

 戦争法案の採決が自民党、公明党によって衆議院で強行された。NHKはさっさと、今国会での成立の可能性が高まったと報道した。「連休にはいれば忘れる」という政府関係者の話といい、これまでにはないような大きな批判が起きているのがわかっていないらしい。自民党政府のやることを正面から批判もしないできたこれまでのやり方が通るはずはない。

 野党は、修正案をだすという党も含めて、採決には反対の態度を取ったのだから、国会の外での怒りと批判がどれだけ影響が大きかったかが分かる。若者たちもNETで呼びかけて、国会前でも訴えをし、今老いも若きも全国で「戦争やめろ」の声を合わせている。
SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)は、自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。= http://www.sealds.com/


 若者の行動を見て、特攻隊をめざす元予科練の高齢者が、死ねと命じられて爆弾もろとも敵艦に突っ込んで行った特攻隊員たちを思い起こして、死んでいった先輩や同輩に「今こそ俺たちは生きかえったぞ」とむせび泣きしながら叫んだという。「今のあなた方のようにこそ、我々は生きていたかったのだ」と。









2015年7月15日水曜日

戦争反対の声がますます大きくなる

国会前の座り込みに参加して戦争反対の声に触れた。真正面から率直に出す声は心に響く。なんとかして声を伝えようという思いから、たくさんのアイディアが生まれている。このところ座り込みと、昨日の日比谷野外音楽堂での集会に参加して、あってはならない戦争への道を止めろとの声が蔓延しているのがよくわかった。昨夜は二時間以上もデモの出発を待って少々疲れたが、10時近くまでかかっ行進後も皆元気だった。

若者の参加が目立って、もちろんオールドパワーも一緒になって行動しているが、これが確実に広がっているのがわかった。座り込みの時も、北海道から一人で上京してきている人に出会った。デモ行進の時も、デモ隊に向かって自分の主張はこれなんだと、ポスターを掲げてアピールしている人もいる。「戦争止めろ」「9条守れ」という揃いのポスターも、一斉に掲げると迫力があるが、自分なりのやり方と自分の思いでアピールするのはすごいことだ。かつての組合の「動員」のデモ行進ではなかったことが、いま起きている。

渓流9条の会で、ヤマメの版画を釣竿につけてアピールしているが、これがいつも撮影者のシャッターチャンスになっている。7月10日からはイワナが加わって、いよいよ「上流部」へさしかかったとシャレにもなった。


鍋は100円ショップ、アベ首相の顔は国会の売店で求めた手ぬぐい











2015年7月7日火曜日

写真展と能が終わって

ほっとしているのは間違いないが、見てくれ来てくれとお願いした方たちとの交流と、その周辺作業で率直くたびれた。
能の道成寺は、息子がやることとて感想なりのことも本人が受け止めればいいことだが、何事も次の糧にというあたりは本人が胸にとらえられるかどうかは、少々心配なことだ。「道成寺」は室町時代以前にもあったとかということらしいから、それだけでも「深い」ものがあるということなのだろうか。しかし、伝統を伝えるのにはもうちょっとわかりよくてもいいのではないかと思うのだが、継いで行くということなら、「一般大衆」にも近づいてくれてもいいのじゃないかと思う。


席料の設定も高いものだ。伝統文化をつないでいく永続性も、大切な要素だから高い設定になるのかもしれないが、ちょっと思い切らないとなかなか行こうかということにはならない気がする。声をかけた方のなかでも興味があるという、あるいは好きだという方もおられたから、気軽にいける値段設定であれば観る人も増えるだろう。しかし、その運営にかかる費用もなまじなものではないことも、息子の言動からうかがえる。国なり自治体が伝統文化を大事にして後世に渡せるように配慮すべきところだろう。



 直前までご指導下さいました先輩諸氏のお言葉通り、思いきっ
てやることを心がけました。まだまだ足りないことばかりですが、
これを新たな出発点と定め、励んでいきたいと思います。
伊藤 眞也






2015年6月30日火曜日

写真展終わっての余話

 14人の写真を並べた展示会は、鑑賞してくれた方々の感想によっても自分なりにも熱いものになった。汗をかいて走り回るという夏祭りのような感じだった。自分の作品の程度はさておいて、これまで撮りためたものの「まとめ」をするという作業は、率直なところそれなりに大変なものだった。自分なりの写真から抽出するのさえ迷い、キャプションに生み出すには足りない知恵を絞るという行為は、身を削るようなものだったというと少し大げさになるだろか。

 この写真展の一番の動機は、これまでの写真を撮ったときの「思い」がパソコンのHDDに残ったまま眠っているのでは、もったいない。いや正確には「もったいない」と言われるかもしれないものもデジタル情報のままでは、なにかの肥やしにさえならないことでは、自分の気持ちにも区切りがつかないということだった。

 同期の「29眼」と銘打つグループで、やろうかとなったのは続けてきた同期会の撮影会の折だった。ちょっとアルコールも入っているから、勢いもあったには違いないが、なにせたんまりある写真の在庫から引き出す作業さえすればいいし、デジタル研究科のプリントの技法もいくらかわかってきたところなので、実に実践的にことを運べばよかった。だから割合心配もなくいくだろうと思ったのだが、そうは簡単に問屋が卸さない。

 いったいどんな写真を引き出してくるべきなのか懸命に考えた結果は、先輩が案内してくれた能登の写真だった。これはこれまで何回か通っているので写した写真の数は多い。能登はその海の広さやそこに息づく人の様子や、小さな港な、心に残るところが多い。4回目になることし2月に訪問したときには、NHKの朝ドラの撮影にも遭遇した。「こちらの方が通い詰めているのだ」との文句をつぶやきつつ、冬の凍てつく間垣の里を撮り、蓄えを増やした。過去に撮った能登、輪島の写真も見返しては見たものの、結局直近のイメージが強いこともあって。テーマとしてはこの地の生活の厳しさを表わすことに決めた。このときは写真展を十分に意識していたものだったので、海が荒れる冬の様子を撮りまくった。

 「能登の北風」というキャプションも、あれこれと考えたつもりではあったが、この展示会を通じて、もっと違うものがあったのではないかという気がしてきた。これはこれから先の話になるのだろう。機会があるのかどうかはわからないが、絞った写真ももっと違うものがあるのではないかとの思いも湧いてきている。

 5枚中の一枚、猟師の小舟の舳先に飾られた榊は、海の荒れを収めてくれる祈りを表したものだろうと、そんな程度の解釈をかってにして撮ったものだった。ところが、実際のところはどうなのかを調べようと、写真展の最中に調べてみたら、石川県と富山県に限られた祝い事だとのことだ。それも毎年211日に催される起舟(きしゅう)と呼ぶ行事とのことで、奇しくも撮影日が211日だった。なんの因果なのかそうでもないかさっぱりわからないが、そんな体験がわかった写真展でもあった。

起舟
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
漁師にとって年に1度のお祝いの日、大小100隻余りの漁船が大漁旗を張り巡らして船を飾り、榊と御神酒を供えて伝統の起舟を祝う。また、大敷き網の各組合では関係者が揃ってにぎやかな酒盛りを開く。漁村の旧正月行事である。
藩政時代から続いているこの行事は、冬の間浜に引き上げてあった漁船を2月11日に起こして海に浮かべ、その年の大漁を祈ったことから始まる。
キシュウという字は、漁村では「起舟」、農村では「吉祝」と書き、発音は同じである。但し、キシュウと呼ばれているのは石川県と富山県の海岸地方に限られています。他県では、「船祝」とか「船霊節句」と呼んでいる。

 日時:毎年2月11日
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~









2015年6月25日木曜日

戦争反対、若者も動いている


 久しぶりにツイッターから拾う。若者の声も広がっている様子でうれしいことだ。ツイッターでは「#ふるえる」とキーワードを入れて表示された。キーワードを打ち込んで拾い出すなんて、なんともすごい仕掛けで驚く。
















2015年6月24日水曜日

釣り人が慮るべきこと

人間が他の生物の命をとって、生きていくためのエネルギーに変えるという行為はどんな哲学を描くのが正しいのだろうか。それも自然の摂理の一部と冷ややかに言うことはできるが、自然や動植物が生きているテリトリーへのストレスや容赦ない捕獲(漁)で、このままでいいのかと思いやる人が増えているのではないか。自然の生成やあるべき姿にこれまでそう気にも留めないでいたことも、それに関わってのニュースが増え、気がかりになることが多くなってくる。

先日の釣りの会の会議のとき、外来魚つり会で大量に釣った外来魚の「弔いの気持ち」を表するべきという意見が出された。釣りの会では、釣った魚については、フナを除き(フナは放流する)、食用にして食べるということを基本にしている。当たり前のことなのだが、多くを釣ることを競う場合は釣れた魚(特にヤマベ)を捨ててしまうということが起こりうる。その行動が釣り愛好者としてどうなのかということだ。釣って食するという日本の釣り文化からしても、食するということが釣る行為と一体であることが、風土といっていいのだろう。

外来魚つり会では、釣った外来魚を掘った穴に埋めて廃棄したのだが、確かになんの感慨ももたずに埋めていた。外来魚として法律で駆除対象としているし、釣って食するという範疇=商業ベースに乗らないのだから、そんなことが無意識に出てしまったのかもしれない。

一昨年前に、外来魚を釣って駆除している映像をYoutubeにアップしたものが、この映像へのアクセス(再生回数)が17000回を超えている。この映像には、外来魚駆除について賛否両方から書き込みが寄せられている。当然ながら、外来魚の釣りの対象が減ってしまうことへの怒りがあるのだが、「釣ったら食べろ」というのもある。外来魚釣りをする場合は、釣った魚は「移動させてはいけない」ことになっている。全国各地に放流して繁殖させてしまった「歴史」は蜜放流として表現されているが、よって今は釣った外来魚の「移動」が禁止されている。ただそれにしても、外来魚を大量に釣って積み上げられているのを見ると、生き物を無為に殺生しているとの見方は印象として残る。

生きものであるが故の、人としての対処、応対のあり方を考える必要があるのだろう。