2015年9月24日木曜日

未体験の大きい、共感できたということかな

人生でも稀な経験だった。分かり合って共鳴するという、しかもその大きさは測れぬくらいのものだった。人々の力の結集ってすごいものだ。このエネルギーが日本を変えていくことになるだろうと思う。どう考えても戦争法が正当性のあるものという道理は存在しない。これから先、「自分の頭で考え行動する」というアグレッシブな行動の積み重ねがある限り、廃れることはないのだろうと思う。一票一票の積み重ねが政治を決めるという一見道理のあることが、民主主義としてはそれだけでは全く不十分で、政治に対しての意見表明をすることが必要不可欠ということを実証してくれた。

欧米ではそんなことは当たり前ということなのに、ようやくそこに追いついたということだ。正確に言えば政府の政策推進に対しての意見表明はこれまでもなかったわけではない。見事にとは言いたくないが、NHKをはじめとするマスコミが、政府の意向に沿って抑え込んできた。それがNETの活発な発信に沿って報道しなくてはならないことに追い込まれたといっていいだろう。この間の報道も腹に据えかねるほどの、報道ぶりだった。最終盤にはそれなりに旗幟鮮明にした新聞の報道も出てきた。そこまで大きな動きになってからか?と恨みつらみも言いたいところだ。

参議院特別委員会のNHK実況放送はどうみても、採決の事実が読み取れず速記録記載もない「戦争法可決」劇だった。採決シナリオを、決まったものとして扱かっていく。これじゃあ、お盆前のお化けじゃないか。足もみえない幽霊を、隠し通してか無視してか知らないが、随分と安っぽい議会にしてしまったものだ。その後の報道がまたひどい。ネトウヨの薄汚れた攻撃を大問題のごときに取り上げる。「自分の頭で考える」という見識をぜひとも差し上げたいところだ。諸外国からはお笑いの種になったのではないか。
しかし、もう駄目ですよ。「三日で忘れる」といわれた恨みは忘れられないでしょう。皆そう思っている。

「採決」の後、国会議事堂前で歌われていたのは「勝利をわれらに」だった。
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 勝利を我らに」(We shall overcome)は賛美歌第二編164番を編曲して新しい歌詞を付けたもので、一種の替え歌です。アメリカの赤狩りの時代にピート・シーガーが行ったワールド・ツアーで歌われ世界中に紹介されました。この歌を歌った最も有名なものはジョーン・バエズによるカバーで、1963828日のワシントン大行進で歌われたことで公民権運動を象徴する歌となりました。邦題の「勝利を我らに」は賛美歌第二編164番の「勝利を望み勇みて進まん」の歌詞や公民権運動を意識して付けられたのだと思います。確かに公民権法の成立はひとつの勝利であり、この法律によって公民権運動が完結したと思った人も多くいました。しかし法律の制定は人種差別を排除する法的な基盤ができただけで、その根底にあった人々や社会の偏見・差別意識を一掃するものではなく、本当の運動の出発点であったのです。ですから、この歌の題名は短絡的な運動の勝利ではなく、「We shall overcome」私たちは乗り越える(克服す)べきだ、というもっと深い意味での人々の意識・社会改革を成し遂げると強い意志を示したものでした。本来、あらゆる人間が平等であるべき真理を求める運動では、勝利も敗北もないのですから。
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まったくの個人的な希望では、「花はどこへ行った」のほうがなお良かったのかなと思った。第二次世界大戦が終了した後にアメリカに吹き荒れた反共の嵐の中、加わっていたフォークグループを解散した後、いろいろ攻撃を受けながらもピート・シーガーは一人でコンサートをしていた。そのときのヒット曲だとのこと。
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ウィキペディア=「戦争がいつまでも繰り返され、いつになったらその愚かさに気づくのか?」というメッセージ、今度こそもう戦争は絶対に止めようという思いを込めて盛んに歌われることとなった。

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2015年9月18日金曜日

民主主義を壊すわけにはいかない

 17日参議院の安保法制特別委員会の強行劇をNHKの実況中継で見ていた。自民党が「強行」するまでの展開をみておかなくてはと、ずっと見ていたが、委員長の不信任決議案が出されてそれが否決された後の展開は「見事」なシナリオの展開だった。委員会の運営を他党と確認しながら進めていくのに、やはり自民党がそれを反故にしていく過程が炙り出る。理解されるための丁寧な説明などというのは嘘っぱちで、どんなに時間をかけたかによって、だから結論・終結を図るという議会制民主主義など気にもかけないやり方をする。法案の中身はもうボロボロだから、国民に説明などできっこないことが知られて、議論できないということだろう。

 議会で「対決法案」の採決がされそうになる時期に、NHKが報道し動き始めるという。日本を戦争の道に引きずりこもうという重大法案が、委員会で採決という日程がはっきりすると、政府広報と認められるNHKらしく委員会の実況放送が始まる。NHKの放映は、委員長不信任案否決のあと中継していながら何をしているのか説明できないほどの混乱で、テレビを見ている方もなにがなんだかわからないという以外はなかった。数分後に「法案が採決された」という情報を伝え、法案可決したという虚構が作り上げられた。当時の速記録には採決の記録が記述されていないということだから、このことからも虚構と言うしかない。

 いったい議会の公式な記録としてどういう記述がされているのかを見てみたいものだ。法律が成立するうえでの瑕疵とはならないのだろうか。これまで自民党はたびたび「強行採決」をやって、その都度速記録にものこらない法律を成立させてきた。しかし今回はこれまでのことも含めた追及がされてもいいんじゃないかと思う。

 テレビ報道では、民報も与党と野党の攻防と描いてどちらがどうのという議論を展開するが、中身に入り込んでいくということを欠落させている。これも意図的だと言っていいんではないか。コメンテイターもあきれるような人物が配置されている。客観的を装ってどっちもどっちというのでは、それこそ自分の頭で考えて自分で行動するというデモクラシーには程遠いことになる。スポンサーと政府の働きかけが、報道の底の浅さを目的としているとしたら、日本の将来を語ることにはならない。

 国会前の16日はよく17日には委員会「採決」というとき。歩道には抗議の人たちがあふれて、車道の方にも流れていくことは自明なことなのに、わざわざ車道側を遮断して鉄柵をロープで縛って固定し、装甲車を間断なく並べる。軋轢を呼び込もうということなのだろう。非暴力で態度表明するということを明らかにしているにもかかわらずの対応だ。







2015年9月16日水曜日

金山町→真室川→肘折温泉

 山形の撮影旅の16日。朝食を摂ってから肘折温泉に向かう。その間は「犬も歩けば棒にあたる」というおももちで、写真の題材になる景色を選別しながら、車を走らせる。天気がよくなって夏の日差しがよみがえってきた。途中、「米湿原」という看板をみつけて脇道に入り、鮭川を跨ぐ橋を通る。この橋からの眺めがまた広がりが素晴らしい。

 湿原は、「50年ほど前まで田や葦苅の場所として利用されてきました。その後、放置され、荒れていた湿地を、米の地区民と鮭川村自然保護委員会が協力して復元活動を実施し、古来あったであろう植物が見事に再生した貴重な場所」としているところ。本命の場所までは行き着かなかったが、知る人ぞ知るというところのようだ。

 肘折温泉までには時間がたっぷりあるので、最上峡の天然杉林に行ってみることにした。樹齢1000年以上の杉が群をなして、さまざまな異様な形をしているのが面白い。写真を撮るにはうってつけのところだ。











2015年9月14日月曜日

ことし始めてのハゼに逢う 

 今年に入ってから、ろくに釣りをしていない。これまでなら、この時期ハゼ釣りには何回か行っているはずが、行こうかという気力がもうひとつない。13日はハゼ釣りの大会だし審判長なる大役もあることなので、連れ合いの「いいよ」というお墨付きもらって、木更津にでかけることになった。友人を途中で拾って現地へ向かうアクアラインは、トンネルの中を車が渋滞気味に走っている。なにかの催しがあるのだろうか、帰りの混雑を心配しながら、アクアラインを渡ったところで専用道路を下りて金田海岸方面に向かう。

70人が集まり要項と検量役員などの確認をしてから、今期の釣り場の具合を紹介してもらった。今期はこれまでは他のつり会でも、かなりの釣果もあったのだが、大きな被害がでた茨城、栃木のあの豪雨が、ここにも影響がでているのではないかと思われた。前日に実際に釣ってみたとのことで、雨水の流れ込みや、釣り場などどの程度影響しているのかを、試してみたという話を紹介してもらった。釣果は下がるだろうという話だった。期待に胸を膨らませることができなかったが、ハゼがどこにいるのかはやってみる以外にないので、ともかく「呑掘り」の船溜まりに場所を決めて小さな海苔船の繋留場所で始めることにした。

浅場に回り込んでみるとポツポツあたりがある。たくさんいるという感じではないので、外海の方へ行ってみることにした。船溜まりに流れ込んでいる小さな用水路から、外海へでる水門(出口)からは勢いよく水が流れている。そのわきの方を狙うと、何匹か答えてくれた。しかしここも釣れ続けるということはない。海岸に向いて左方へ歩き、波打ち際の緩い瀬になっているところで、ポンポンと小気味よくあたった。アタリが遠くなったら動くことに徹して、徹底的に歩き回ることにした。

場所を大きく変えることがなくても、ぐるりと歩き回ってまた戻って釣れるというケースが何回もあった。昼近くに黒雲が覆ってきて、見る間に風と雨が襲ってきた。午後から雨という予報は確かにあったが、ちょっと早い。そういえば房総側は東京よりは早く天候が変わることが結構ある。雲を見かけた時にレインウェアーを着こんでおいたので、風雨にめげずに釣りを続けたものの、風で辺りはとれないし波立っているときに、魚は餌を追わないようだった。

13時過ぎにもハゼが活発に食いつくので、これは少しは量がいくかなとおもいつつ、小気味よいアタリを堪能した。エサがかりして竿をあげると、水中から飛び走るようにでてくるときもあった。ハゼも餌を食って逃げるときの速さは尋常でない。結果、釣果は1キロにちょっと欠ける程度だった。後一尾あがれば超えたかもしれない。

ハゼつり大会の釣り範囲に、木更津基地がある。オスプレイが常駐するとか、整備基地として海外のオスプレイも使用できるようにするという、「軍部」独裁の動きが伝えられている。非戦をもって貢献してきた日本が、戦争の道へすすむことになれば、釣りどころでない。それは敵対させてもらう以外ない。木更津を「敵国」の反撃対象とさせるわけにはいかないし、第一いつ落ちてもおかしくない軍用機は、危なくて仕方がない。「オスプレイは来るな」の声をあげ、釣り大会の最後に示威行動した。








2015年9月11日金曜日

真室川の景色がぼうっと心にしみる

 真室川の台地の田んぼと、川のコラボレーションはどこの景色より気に入っている。イネに穂が出始めて黄色づく瞬間は特にすばらしい。田んぼの美しさをいいと思うのは、農耕民族の伝統をDNAにもっているからなのだろうか。代掻きから取り入れまでの流れはどの瞬間も、見逃せない。

 金山町本祭りの翌日(16日)の早朝には、だから当然真室川の台地に向かって、田んぼのずっと先から日の出を待つのが、ここを訪れたときの定番だ。遠くの山を背景にして、手前の杉林の間に見える家の少し右から出てくるはずの太陽。一緒にいる先輩が朝陽を撮ると所望しなければ、自分だけならきっとその気にはならなかったろう。しかし期待どおりにはいかず、暗さが解けて時間が過ぎて行っても、連日の雨の湿気がまとわりついて台地から離れないようだった。

 仕方なく車をあてもなく適当に転がして、霧が薄まっている畑の中に祠がみえたので、シャッターチャンスにさせてもらった。ちょうどネギの畠があって、白い人ニンニクの花(後から判った)がふうっと浮き出して印象的だった。辺りにあのニンニクの香りが充満していたが、アマガエルが出てきて歓迎してくれた。










2015年9月8日火曜日

バリウム検査の後騒動

31日はバリウム検査をすることになっていた。隣の学校の体育館に行けばよいので、このところそこでことを済ませるようにしている。終わってから下剤を余分にもらい、コンビニに寄って牛乳を仕入れてきた。家に向かう途中で「悪い人」に出会ってしまった。悪い人は釣に誘ってくれる人だし、飲み屋にも誘ってくれる人なので、ほんとはいい人なのだ。ハゼ釣りに行きたいねと言うし、飲むに行こうかといわれると、バリウム飲んだばかりだからと無下に断るわけにはいかない。それに先延ばしするとどうもいつになるかわからない。と、へ理屈を言付けて、5時にバス停で会うことにした。

駅に向かって二人で北口の路地を歩いているときに、「良い人」の知り合いと遭遇した。一緒に行っちゃおうということで、前に一度行ったウナギ屋さんの暖簾をくぐった。新しい人との出会いは刺激的で楽しい。それに3人になると盛り上がり具合が違うのか、ひとしきりの飲食の末にカラオケに行くと言い出した。もちろん嫌いではないから、ついて行くことになった。

そう遅くなったわけでもなく、いつもどおり風呂にはいってから寝たのだが、夜半になって腹が痛くなった。尋常な痛さでなくて汗まででてきた。2時間ほどで収まった後、朝方通じがありバリウムが一部出たという感じだった。ところがそのあと跡が便秘で出てこない。詰まってしまったのかなという想像がだんだん強くなる。

腹が張ってくるし、4日からはイワナ釣りの計画があるので、困ったことだと思い悩んだ末、3日に医者に行くことにした。家の近くで行こうと思った胃腸科は木曜日が休みということで家から近いと言うメリットは生かせなかった。いつも言っている診療所へ電話をすると内科対応でということで、そこでレントゲンを撮ってしらべてもらったら、バリウムはない。盲腸にわずかに入り込んでいるだけだった。下剤を貰って帰ったが、下剤の使用方法が上手くできずにこれも難渋した。騒ぎが収まったのは岩手にイワナ釣りに行く朝、通じが付いたときだった。これで落ち着いて旅に出かけられると、前日支度した釣り道具をキャリアバックに詰め込んだ。

 バリウム飲んだら酒飲むなとは説明書きにあるが、医者に行ったときには「飲んでもいいんですけどね」との話だった。バリウムが残っていないという検査結果のうれしさに、どうしてか聞いてみる気がそのとき起きなかったが、あとで、聞いておけばよかったと反省した。 















2015年9月4日金曜日

8.30国会10万人行動は参加者3万人の怪

31日の国会前に、息子に声を掛けたら行くと言うので一緒に出掛ける。1時を少し回ったところなのに、国会議事堂前の出口は人でもう一杯。多くの人が集まるだろうとは思ったが、通常見たことないような人波だった。国会議事堂へ向かう出口は早々と規制がかかって、進めない。この「戦争法案」に反対する集会は、弁護士の人たちが「過剰警備」を止めるように申しいれしているらしい。警察が歩道を狭めたりしていることを体験しているので、まあそうだろうと列につながりはするが、延々と人が続いていて、なかなか前には進めない。

国会前には釣りの仲間も来ているはずだが、無理かもしれないと途中電話をしてみると、議事堂前は「解放」されて人が入ってきていると言う。それならばと、気を取り直して息子とはぐれないようにお互いに確認しながら歩く。結局議事堂の周りを一周して、議事堂前面の後部にたどり着いた。あとからわかったが、国会前にはいかせないという規制を敷いているのだった。議事堂が見える車道にはすでに多くの人が入っているのが見えるが、なお警察官が規制のテープを持ち出して入れさせないように図っていた。規制をかいくぐって警官の脇をすり抜けた。「規制は止めろ、止めた方が安全だ」という声が聞こえていた。車道を国会前にむかって上り、すぐに渓流釣り9条の会の姿が見えた。

警察発表で3万人ということに参加した方からは批判の声が上がっている。産経新聞がヘリで撮った写真によって、九つに分けた国会前の写真によってのカウントで3万人ちょっとだったと報道した。警察発表と大差ない数でハハーンとその気脈を感じた。不思議なことに、NETと新聞を見る限り(全部見たわけでない)国会前以外の写真が報道されていないのが不思議だ。NHKの報道を見て、近くの駅での「出口調査」をやればいいのになどと馬鹿なことを思ったが、周辺の駅に照会して参加者を割り出した人がいた。
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データの取り方は
1-主に国会前に行くために利用する駅は国会議事堂前駅、永田町駅、霞ヶ関駅、溜池山王駅の4駅と思われるので、その駅を検証データにした
2-各駅の自動改札の改札出た人のカウンターデータを開示して頂いた
3-雨の日は通常の1割強の乗降数が減るとのなんで、データを最終的に通常の改札出た方の1割くらいのプラスをする

4-乗降数でみるのではなく、駅改札を出た人数のみのカウントをする
※以上4つの条件で割り出しました。
①東京メトロ 国会議事堂前駅(改札出た人)
通常日曜日1.900人程度 30日当日25.621
増減数:23.721
②東京メトロ 永田町駅(改札出た人)
通常日曜日7.000人 30日当日23.430
増減数:16.430
③東京メトロ 霞が関駅(改札出た人)
通常日曜日(日比谷線・丸ノ内線・千代田線)4.300人) 30日当日28.442
増減数:24.42
④東京メトロ 溜池山王駅(改札出た人)
通常日曜日7.000人 30日当日9.666
増減数:2.666
増減数だけの合計は66.959でした。
この4駅の改札出た全体人数は87.159
通常日曜日の利用者が2万人ほどに対してこの数字という事がわかる。これがデモの影響であるという事は間違いない。これに悪天候要因で通常は1割強減るという事ですから、それを加味すれば、増減数はこれに合わせて2千人ですかね。
結論、駅の乗降数という見方では12万人には至らないものの、いずれにしても3万人の参加者ということではなかったです。
この見方では7万人以上の参加者というデータは見て取れます。
これに赤坂見附駅(かたくなにデータ開示拒否された)、赤坂駅(3万数千人改札出る方利用客数)まで含めれば12万人は超えるんですかね。

規制が厳しかったんで、最寄り駅降りてから混雑に圧倒されて違う駅から出た方がよいと考えた方も居られたでしょうが、それほど大きな数字になるとは思えませんが、全くの排除もできません。
また、電車以外の交通手段も考えられますがそれは予測不可能なんで加味してません。
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 他方、総がかり行動実行委員会が配布したプラカードは10万という話もあるから、3万人というのはいかがなものかということだろう。今週の週刊新潮には「12万人はねつ造」まがいの記事がある。ここまでくると、事実を捻じ曲げた意図で暗躍している連中がいるとを実感する。









2015年8月30日日曜日

雨の中武者行列と山車が行きかう

 15日、金町の朝9時半から本祭りが動き始める。車で30分ほどの新庄のホテルから向かう途中、つい田んぼの景色に囚われて時間を食ってしまった。

 出発時間内に間に合ったつもりが、雨が本降りになってしまったので、駐車場で濡れないように支度している間に武者行列が動き始めていた。早足で追いかけるものの、どう撮るかもさだまらないままシャッターだけは押した。行列の皆さんも雨の中大変な思いをしているようだった。

 山車の方がどう動くのかも確かめる暇はなかったから、道端の人に確かめるとその場を通ることになっているとのことでひとまず安心。金山川にかかる「きごころ橋」で戻ってきた武者行列と山車が行き違いするが、その様子を見ながらまた右往左往してしまった。運よく山車の行進が休憩になって止まり、担い手の子供たちや若者が穏やかな動きになっていたのを見計らって、中に入って撮らせてもらうことにした。

 また動き出した山車を追って先に歩いてみたが、そのころから青空が見えてきた。しかし出だしから焦ってしまったのが後を引いているようで、なにかもう一つ物足りない感じが残った。








2015年8月29日土曜日

新庄で落ち合って、金山町の宵祭りへ。

814日に先輩と新庄で落ち合うのだが、こちらは盛岡から新幹線に乗り、大曲で奥羽本線上り列車に乗り込むことになる。ホームから見える情景を眺めながら、知らない街を素通りするのはもったいない気がするが、そんな時間の余裕はない。来た方角とは反対に向かって、本当に大曲りをしてディーゼルカーが発車する。車音は昔ほどうるさくないのだろうか気にならなかった。3両だかの編成でトイレ付、列車が駅に着くと自分でボタンを押してドアを開ける。乗り込んだ人は備え付けの機械から「切符」を受け取る。田んぼのイネに少し穂が出て、うっすらと黄色づいている景色をゆったりと眺めながら、新幹線では味わえない「車窓から」を楽しんだ。

 レンタカーを借りる続きを、相方がくる前に済ませ、宵祭りまでには十分な時間を、早めに金町に入って祭りの前の雰囲気をカメラに収めようと歩きまわった。それらしき担ぎ手でない地元の人々、若者が中心に担う祭りは、有名な祭りの担ぎ手の様子とちがって初々しくて頼もしい。ところが、あいにく夕方から雨模様の様子ということで、宵祭りの山車は中止になってしまった。せっかく造り上げた山車の飾りを、翌日の本祭りの前に台無しにしてしまうわけにはいかない。山車の前でくつろぐ若者は、宵祭りにでかける目標がなくなっても、屈託のない笑顔でくつろいでいた。












2015年8月28日金曜日

金山町に入る峠は雨がちらつく

26日、共立診療所へ行って検査結果を聞いた。心臓は、CT検査も心エコー検査ともに明らかな異常はないという結果だった。背中の痛みが出ていたのは、内臓からくる場合もあると勝手に心配していたのだが、数日前から枕の高さを変えたら不思議と痛みがなくなってきた。その旨を医師に説明をしたら、「そうなんでしょうね」と反ってきたので、この場はその結論で置くことにした。ピロリ菌の「ハイリスク」のほうは31日にバリウム検査をした後にということで、胃カメラ検査は逃れられそうもない。

いつも通りの血圧と尿酸値を下げる薬をもらって、いくぶん軽くなった気分で6146歩をウォーキングして家に戻った。体調が悪かったのが影響したのか、身体の動きと頭の動きがよくなくて、ブログの書き込みも、ネタがあるのにもかかわらず、ままならない日が続く。だからということになるのか、一日の時間がたつのがやけに早い。「明日があるさ」と仕掛けなければならないことも後回しになっていく。

山形県金山町と肘折温泉の撮影旅の写真整理が出来上がったし、岩手山麓の親父の家訪問から一週間ほどの間の後日日誌もまとまったので、撮った写真の編集(現像)をしながら、余韻を楽しんでいる。いい写真が撮れているだろうか。

金山町に入る峠は雨がチラつく





2015年8月25日火曜日

これじゃ身体に良いわけはないか。

2か月前に写真展をした結果、写真をもう少し真面目に取り組んだ方がいいんじゃないかという気になっていた。撮りためた写真の整理も必要だし、その方は「デジタル研究科」のおかげで、ノウハウを生かして相当整理できてきた。48000枚の写真をパソコンの写真編集ソフトを使って大分できてきたし、しかしそうするうちに、これまでのモノがなんと詰まらなくて未熟なものが多いのかという反省に迫られた。8年前にやった写真展の「金山町」も、もっとキチンと撮りたいという思いも湧いてきていた。

 金山町には何回かその後も通って、自分だけでなく同行の人からもよいところだと言われている。気に入ったところは何回も撮る必要はある。なにか別の視点に突き当たればいい写真に出会えるはず。そんなことをしばらく前に話をしていたら、行こうかという話になった。

岩手に行ったときに山形に回ってと心づもりをしていたのに、連絡がなかったので不成立かと思っていたら、おっかけ連絡があって、是非にということになった。急きょ計画を練って、14日に新庄で落ち合うことにした。そうなると、「休肝日増」作戦にも影響してくる。写真撮影の楽しみは一日の締めにあれやこれやと、アルコールを摂りながらの談義がなければならない。なにも写真撮影に限ったことではないだろうが、それで楽しみが倍増する。

 「重大事態対処」がまだ分からない間をいいことにして、「飲み得」もいいと勝手なことを言って、今回は二人になった先輩と、それなりのアルコールを胃袋にいれて、先輩と談義に励んだ。重たいカメラを担いでも、背中の痛みを圧して動けはするのだからまだ、大丈夫と自分を慰めながら。

2015年8月24日月曜日

健康診断の結果が送られてきて…。

健康診断で今年辺りは、何か引っ掛かりそうと、なにげなく思っていた。当たってもらいたくなかった結果を見て、いよいよ高齢者の有資格者に近づいてきたと自覚させられた。縦隔脊柱・新陰影拡大、ピロリ菌の疑い、肝機能障害と三点セットで精密検査をしろとの通知だった。肝臓障害は身勝手な「数値が少し高いだけ」との解釈で、いい気になっていたし、アルコール量を減らすことで下がるということで、甘く見ていた結果だった。

いつもお世話になっている医師に相談しにいって、心臓のエコー検査をすることになり、あわせて最近痛みが出ている背中のCTスキャンをしてもらうことになった。肝臓と尿酸値は、アルコール節酒で下げることでいくとして、ピロリ菌は胃癌の原因との脅かしもあり、カメラを飲めと言う。今は楽になっていると聞いているが、なるべくなら避けたい気持ち。8月末にバリウム検査の予約をしてあったので、その後でということで、当面はしのげた。


それより、背中の痛みが出ていることが気になっていてその程度が、日常の動作で「アイタタ」という感じだから、この原因追及はしなくちゃならない。まあ、歳なのだからしかたがないかなと思うところもあるが、今は妙なことでないことを祈るのみ。結果は3週間後ということで、その間にちょうど岩手の親父のところに行ってくることになっていた。従妹が山形に帰って、墓参りをする間親父に付き合わなくてはならない。親父もこの間までは一緒に行って、「家」の墓に行っていたが、今はもう動くのもやっかいらしい。最近は食べるものも少なくなって、何を食べさせたらいいのかという苦労があると従妹が言う。東京の年寄りと同じようだ。自分もいずれそういうことになるのだろうと、チラリと思いながら作ってくれた煮物を中心の数日を過ごした。






2015年8月20日木曜日

馬路村の「フェスティバル魚梁瀬」

2回目になった馬路村は、旅館の前に川があり、深いところがないので子供連れには人気のようだ。子供ばかりでなく親の方も水に浸かって楽しんでいる。ここなら、川の大きさが適当で目が行き届く。夏の旅は、かつては涼しい東北方面が多かった。家族そろって行った若いころは、西の方面は少なかった。だから、暑いけれども知らない地への旅は魅力的な感じがある。
前回とその前のブログは、現地からスマホでアップしたものだったが、作業がやりにくい。パソコンを使った編集とは違って、思ったように表示できないようだ。スマホも小さなパソコンと同じように使える点は利便ではあるが、パソコンと同じように使うのは難しいところもある。

スマホの「データの使用料」が料金に跳ね返るので、Wifiの通じないところでは安心して使うことができない。通常は家のパソコンの無線LANWifi)から電波を取っているので、使用料は多くはならないが、外で使用すると見る間に増えていく。これでは「歩きながらのスマホ」などどれだけの料金を払っているだろうか。まず10000円は下らないだろう。東京の(日本の)Wifi事情は、その使用可能箇所が少なくて、来日した観光客には評判が悪いという。オリンピックまでには増加させると言うが、日本のこの手の業者も利用者に還元することに力を入れてもらいたいものだ。


31日の魚梁瀬の祭りのとき、小ぢんまりとした村の雰囲気と、若者の姿をカメラに捉えたので旅館宛に送った。








2015年8月12日水曜日

馬路村の釣果

  馬路村では、Uさんと鮎釣りをやるのが目的のひとつ。とはいっても、自力の見よう見まねなのだから、楽しみにとなるのかの話。ぎこちなく仕掛けをつけた途端に風で絡んでしまった。竿を操るのも、泳がせるつもりのオトリにどういう効果になっているのか、さっぱり想像てきない。6尾を確保できたのが、なによりではあったが、釣り上げた嬉しさはもうひとつ足りない。

  釣りは、アメゴも狙いにしているものが、昨年同様入れがかりになるのは、カワムツだけ。今回はサシを用意していったから、おしげなく使えた。途中から唐揚げにして食べてみようと、「確保」にかえて、30尾ほど旅館に頼んで揚げてもらった。アメゴや鮎には及ばないが、思ったよりいけて収穫だった。この安田川は、5年ほどまえから、鮎が少なくなって「近自然工法」による河川改修をしているとか。山が荒れたことが原因でとのことで、この地も環境破壊にさらされていると、らちがいでないこと を、思い知らされた。



"2015.8.1高知県馬路村魚梁瀬「フェスティバル魚梁瀬」の花火" を YouTube で見る

 爺さんが、ショートスティーにいって、体調が悪くてまた入院になった。入院したのは併設されている場所にある病院で、移動は大事にはならない。連れ合いが、お婆ちゃんを連れて、息抜きに出かけていたが、以前にもあったことなので、要領は承知していた。入れ替わりにこちらは馬路温泉にでかけた。二回目の訪問になった馬路村は柚子の里として知られ、人口が1000人ほどという。温泉周辺を廻ると、村をあげての取り組みを、身近に感じることができる。昨年につづいての利用で、従業員さんとも顔見知りになり、馬路村の奥から通ってくるその若者は、ちょうど祭の日であることを教えてくれた。話す言葉のの端々に郷土の思いを感じて、勧めに従ってでかけてみることにした。20分ほど走って着いた山あいの公園に、300人くらいの人が、広げられたシートに座って、舞台の出し物に喝采をおくっていた。出演した保育園の子供たちや、若者のバンドか盛り上げていたが、夕方の陽が落ちていくときのシチェーションは、昔何処かであったかなと、懐かしい想いをさせてくれた。奥まった地で、お年寄りが多いのかと思ったら、赤ちゃんをつれたママさんや若者が多くて、村の息吹きを感じさせてもらった。

2015年8月6日木曜日

二つの原爆投下でVサイン??

 いわゆる勝利を表するチョキのこと。第2次大戦のときのイギリス首相チャーチルが、ヴィクトリー勝利を現すVサインを出すのがお得意で、原爆投下の話を聞いたチャーチルが、得意のVサインをしたと言う話。これを見た記者が「勝利のVサインですね」と質問したところ、「いや、これは平和、ピースのサインだ」「どういう意味ですか?」「世界の平和は、この二本、広島と長崎によってもたらされる」と答えたという。以後、勝利のVサインが、平和のサインともなったとか。

 これが事実と言う前提だが、広島、長崎の原爆投下によって、Vサイン=ピース・平和が表されたということなら、日本人としてはそのまま飲み込むには抵抗がある。核実験を人類に初めて使ってみた行為が、平和のサインとされては日本にとってはたまらない。その後、泥沼になってきたベトナム戦争に行くのはイヤだ、という若者の「早く平和な世界を」というアメリカ政府に対する反抗のサインということでも使われたそうだから、それは平和を望むという意味にはとれないことはない。スポーツ競技でもよく使われることだが、このポーズはカメラの前にたったとき、若者のなかで“一般化、普遍化”している。しかしVサインの持つ意味はそれなりの意味と歴史をもつとなると、簡単に使えないことになる。

 カメラの前のポーズがVサインという定型的な恰好は、こんな意味合いを取り込んだものだろうか。今風のこのポーズの理解は楽しさと喜びの表現なのだそうだ。いささか浅薄なことだとも言えそうだ。さりとてこのワンパターンの他にどういうものがあるかということは、わが年代よりも若者の方が身に着けていることでもある。また、Vサインは、百年戦争のときイングランド軍の弓兵が、敵であるフランス軍を挑発するサインとして使用したのが発祥という説もある。平和と戦争を表象するもの、双方にかかわるVサインとは妙なものだ。
 1948年(昭和23年)に建てられた
 現在のもの(左側)

 8月6日のヒロシマに続けて、長崎に落とされた原子爆弾の「原子爆弾落下中心地の標」が1948年に長崎市によって設置された。この写真をどういうわけか父が持っていた。8年後に現在の形状に変え、1968年には表面を御影石に張り替えたとのこと。

 1996年に「撤去してモニュメントに」との計画が起きたが、当然批判もありこれは断念した。現在のものも「原子爆弾落下中心地之標 地上500米にて炸裂」と表してあった当初の木製のものよりは、現実味が薄れている。「風化」を能動的に働きかける輩もいることだろう。この地が平和記念公園でなく、平和公園と称していることも歴史の重みを感じさせることで、人類の生存にかかわる負の歴史を薄めたり風化させてはならない。

ウィキペディアから
・1948年(昭和23年) - 市が、盛り土の上に木製の標柱を設置。「原子爆弾落下中心地之標 地上500米にて炸裂」の表示。
・1956年(昭和31年)3月 - 三角形の鉄筋にを蛇紋石張り付けた現在の形状に。デザインは松雪好修。高さ6.5メートル。
・1968年(昭和43年) - 表面を黒御影石に張り替え、現在の姿に。
・1996年(平成8年) - 中心地碑を撤去して、新たなモニュメントを建立する計画が浮上、問題化する。撤去してその跡地には被爆50周年記念事業碑(母子像)を建立する予定であったが、撤去計画を断念。



2015年8月4日火曜日

新豊洲市場のサギは大丈夫?


 新豊洲市場を見ているうちに、建設場所から流れ出ている水路

で、シラサギが餌をついばんでいるのが見えた。橋の上からこち

らが顔を出したので、一度は警戒して飛んで行ったのだが、すぐ

戻ってきてまた同じ動作をしている。よほどいい餌がいるのだろ

と思ったが、視認するのは無理だった。なにか生きている餌に

いないが、かの建設中のところから流れ出ているものだから、

題の六価クロムだのシアンだのと言う有害物質の影響はない

だろうか。半体が白い鷺と流れ込む黄土色の水がなんとも、異

様な色だった。













2015年8月2日日曜日

東京の公共事業「新豊洲市場」ここにもあり

 新国立競技場の「白紙見直し」という前代未聞の「良い」政治がおこなわれて、民主主義とはかくたるものと、少しだけ評価していいのかという具合になった。でも、これまでも「凍結」という言葉も活躍して、時が過ぎればまた復活などということは、いくらでもあった。公共事業が大手を振っている時代はどうみても終わっているわけだから、そういう意味での宿題もこれまた、たまっているわけだ。しかし八ツ場ダムなどは、中止と継続がもてあそばれて、住民同士の亀裂を残すようにまでになってしまった。

 どこもかしこも、山を削り川を壊し「新しい町」を創造するという美名がまだまかり通るようで、「戦争法案」だけでない、後ろ暗い政治も絶対許さないということに高まるべきだと思うし、早晩射程距離に入ってくるのではないかと期待したい。

 新豊洲市場の建設が急ピッチで進められている。一度は「必要ないと」と結論を持った者が、一知事の気まぐれで再浮上してきたという、旧の場所でいいよとしていた多くの意向を無視して、すすめた馬鹿なことといってもいいのだろう。先日、建設中の場所を見てきた。膨大な建設地域に大量の鉄材やら建設機材が配置されていた。建設における費用の膨大さも実感したが、東日本の震災復興に比べたら、「どれだけ」のムダなことと改めて想うところだった。