2016年3月20日日曜日

さくら咲くころ

 東京の開花宣言が今日あたりになるかなと、気象庁の開花監視係さんが連日靖国神社に詰めているらしい。近所の神田川界隈では、早咲きの桜がすでに葉を抱えているものもある。先日歩いてみたら、神田川沿いで見られた桜が、河川の改修工事に伴って切られていることに気が付いた。川にせり出した桜が陽を浴びて枝振りよく伸びているところがあったのに、もったいないことだ。

 隣の敷地は学校だが、ここにも桜が鮮やかなピンク色で咲いたものだったが、どういう理由かわからぬまま、さっぱりと切られてしまった。事情は様々あるのだろうが、結果として「都市化」によって邪魔にされてしまったということだろう。貴重なものがなくなっていくのは寂しいものだし、なによりズルズルと自然の環境が奪われていくことは、「都市部」では特に配慮が必要なのではないかと思うのだが、気にする話はあまり聞いたことがない。

 近所の某会社の住宅跡地が、一時広場として利用されていた。ここに小中学生が優先して使える競技場が造られ、合わせて災害時の井戸やトイレなどの施設も造られた。半分ほどは樹木も植えられて、土に触れられるようになっている。ここに、以前鉢植えの桜を解放するため、むりやりお願いして植えてもらったのだが、その桜も無事に育っていた。(植えてもらったことはナイショ)この桜は「早咲き」ですでに葉だけになっていた。工事中だったので観ることができなかった。










2016年3月14日月曜日

4月18日~24日からの写真展が近づいてきた

 能登の2月の風物に接して、今回もまた同様なコースを巡
り歩いた。前と同じところを見て歩いても、また新しいもの
が見えてくるものがある。そうでなければ歩いても仕方がな
いわけだし、撮る甲斐がない。写真を撮る動機も、日頃の写
真に対する理解が深化して出てくるものなのだろう。これが
いいと言えるものは、自分の思いだけではなかなかない。時
間をかけていって、いろいろなことがみえてくるのだろう。

 ゼミの写真展の準備が進んで、いよいよ418日からの開
催が近くなってきた。テーマは「共生」として14人で、思っ
た切り口を披露する。能登の生活の厳しさを描いて組み写真で表わした。自分の思いと重なるところ、共感をしてもらえるのかどうか、ハラドキしながら最後の準備をしている。








2016年3月10日木曜日

東京大空襲があったのは71年前の3月10日


 71年前の3月10日にあった東京大空襲、10万人以上が犠牲になった。戦争は二度とやってはならない不文律が破られようとしている。平和な日本で手に入れたものは多かったはずだ。「戦時」を想定した道は、転落に等しい。武力による紛争地域や国に安寧な生活のところはない。


おはようミドリ♪ 3月10日は『東京大空襲の日』です。1945(昭和20)年3月10日深夜0時8分、東京でアメリカ軍B9爆撃機344機による焼夷弾爆撃がありました。 死者約10万人、焼失家屋約27万戸という、第二次大戦で最大級の被害を出しました。#東京大空襲
林 毅彦さんの投稿 2016年3月9日




1945年3月10日。東京の街が焦土と化しました。 #東京大空襲
HuffPost Japanさんの投稿 2016年3月9日


隅田の流れに♬


合唱 ぜいむ合唱団


2016年3月8日火曜日

氷見線伏木駅操車場と北陸新幹線とのコントラスト

3月から開業した北陸新幹線によってか、到着した8日の金沢駅は人でごったがえしていた。開通によって訪問者が増えていることを実感した。これで経済効果が「いくらいくら」といソロバンがはじかれていることに地元は期待しているのだろう。実際レンタカーの従業員も車の貸し出しは増えていると話していた。

我々のように開通前から通っている者にとっては、身勝手ながら古き良きものの伝統と風合いが、改変されてしまうのではないかとの危惧が湧いてくるのが率直なところだ。

能登の旅の最終日に、たまたま見つけた操車場は、その陰の部分を見た思いだった。壊れて野ざらしになった車両、錆びた線路、枯れたつる草にとりまかれた小屋、陸橋がなんとも哀れげに見えて、4人で撮りまくることになった。かつては盛んに活躍した場所であったことは疑いないが、今は新幹線が3時間ほどで東京から来てしまうところで、時間が止まっているかのようにみえるのはなんとしたことか。

場所は高岡駅と氷見駅を結ぶ氷見線で、伏木駅の操車場だった。法外な力で忙しく過ぎている時間と、活躍の場がなくなって静かに佇んでいる朽ちた電車とを、どういう整合性をとればいいのか。帰京してから、NETで検索したら

2015314日の北陸新幹線開業を控えて、2010年にJR西日本の佐々木隆之社長は、赤字対策として氷見線を廃止してバス転換を行うか、本数削減などを含めて地元自治体と協議したいとしていたが[1]2012128日に北陸新幹線金沢開業後も引き続きJR西日本が運営するとともに、運転本数についても大幅な変更はないと発表した[2]。このため、本路線は、城端線のほかにはJR西日本の在来線路線と接続しない路線となる。全区間をJR西日本金沢支社北陸広域鉄道部が管轄している。」

とあった。やっぱり廃線の危機にあったらしい。いきさつはわからないが、もちろん廃止はしないでとの声が高かったのだろう。地元の足が確保されてないよりだったが、損得勘定で差し引いてJR西日本がこれを切り捨てて、「経済効果」をあげると言うなら、やっぱり誰のための新幹線かということになるだろう。氷見線の時刻表を見ると一時間に一本(時間帯によって2本)で、「運転本数に変わりない」と言えるほどの本数ではない。









氷見線氷見海岸


2016年3月6日日曜日

氷見漁港の周辺は昔の賑わいがある

 4日のルートが入り混じるが、10日に寄った上庄川と漁港は古くからの歴史を感じるところだったし、それをカメラに収めることを目標とした。能登は全域を通じて歴史と伝統がどこにも刻まれていて、写真に限らずその文化を調べ歩いたら、日本のもっと深まった理解ができるだろうと思いながら回っている。

 氷見漁港の周辺もその古きものが垣間見えて、日本の歴史と文化を感じさせるところだった。人に出会えればもっとその思いを深めることができるかもしれないが、通りがかりの人は元々少ないし、しょせん通りがかりの「馬の骨」なのだから、なかなか思うようにはいかない。

 歩きながら、しかし「なにかありそうだった」臭いを嗅ぎ取ることに集中して、結構な時間を費やした。氷見漁港は、もう市場の人がいない時間帯だったのか、烏とサギと鳶が港の中をにぎやかに凌駕しているだけだった。












2016年3月4日金曜日

立山連邦のシャッターチャンスを追って、雨晴海岸、義経岩から富山新港へ

 今回の能登撮影旅新プランは、立山連邦を撮ることだった。4日目は往路になる雨晴海岸で、立山連邦を撮るのが日程になっていた。広々と北西から南東の方向に伸びている雨晴海岸からは、立山連邦が遠望できる。カメラを持っている人は誰でも撮りたくなるポイントだ。

 この日は朝天気が良かったのだが、なぜか誰も朝陽を撮りに早起きして…と言う声をあげなかった。朝食をのんびりと摂り、コーヒーをしっかり飲んでからの出発だったから、海岸にでたときは明るい陽射しが輝いていた。そこにカメラ道具をリュックに詰めて海岸の右の方を狙っている人がいた。その人は今朝早く朝陽を撮ったと言い、「私は今また来てみたのですが、今頃来てもダメです。」とダメ出しをくらってしまった。朝陽なんかという気もあるにはあったが、ちょっともったいなかったかなと少々反省をした。

 朝方には大勢の写真愛好者がきているそうで、海にせり出している石のブロックにでていくといいのだと、場所を指さして教えてくれた。そこから、「義経岩」の立山連邦のビューポイントに向かい、新高岡までの途中でも立山連邦の眺望を追いながらの行程になった。富山新港の貯木場からの景色は拾いものだったかも知れない。







2016年3月2日水曜日

観光資源という言葉に抵抗を感じるな

 資源というと「金」に結びついたイメージで、すなおに飲み込めないものを感じる。日常の生きるための事業活動によって手に入るものが、生活の大部分を支配しているのだから、否定することや無視することもかなわないわけだが、「ナントカ資源」「資源化」などと地球上の存在するものを資源として見立てて、事業活動に結びつけるということに違和感がある。

 地球規模で見れば、温暖化の原因として鼻つまみ者になってくる原油生産も、値段が下がっても生産を縮小せず、「競争で勝つまで」掘るというところまで陥ってしまって、「事業」の性格が歪んでしまっているのではないかと思う。原油は戦争の種にもなって、その財貨で兵器までまかなわれるとなれば、人類史の汚点にもなっているのではないか。

 観光も多分にもれず資源として、人を集めて金を落として行ってもらうという方法がまかり通る。必死で地域経済を活性化させるのは、今無視することはできないとではある。世界遺産もその最たるものに利用されて、またそのことに人が新鮮さを求めて訪問すると言う仕掛けに入っていく。それが間違いだとは言えないが、人が歩んできたことや文化としての保存を大事なものとして、後世に引き継ぐという視点からは、どこかネジ曲がっているという気がするのだが…。


世界農業遺産の白米千枚田にはちらりと寄っただけだったが、見るたびに観光農園が農業の発展なのだろうかと、そんなことを考えてしまう。雨の中でポツンと人形を販売していたお婆ちゃん、撮らせてもらえばよかった。写真の幅が広がっただろうと反省。能登三日目、氷見漁港と上庄川周辺を撮る。歩いているうちに雪から晴れになる。他と同じように人気は少ない。













2016年2月29日月曜日

能登、曽々木海岸のおもしろさは

 先日のブログで、「泣かず飛ばず」と書いてしまった曽々木海岸は、これまでも立ち寄ってはシャッターを切ってきた。同伴者の身分であるゆえのことで、リーダーになると撮影場所の選定にその軋轢もまたあるだろう。そんなことは斟酌なく他人事のように言うのも実は失礼になる。

 駆け出しの「写真や」にとっては、選択された場所を決めるという重責を免除されているわけだから、あまりに勝手な言動はまずいかなと、少々の反省もしている。正直なところ、どこでもシャッターを押せばいいのだから写真は撮れるわけだし、曽々木海岸は、「自然美と豪快な断崖風景」という観光が前面に出されているところで、能登観光のスポットとしてかかせないところなので、ここを除くわけにはいかないのだろう。

 この2月の時期には、海風がすさまじく吹き荒れて、今回は風雨があたるという絶好(?)の機会に遭遇した。海風で岩に当たった波が豪快にはじかれる場面は、写真には確かにいただける。ゆえにそれプラスアルファーのものを手にしなくてはならない。「観光資源」とここで暮らしてきた「証」の、せめて匂いでも撮れればというところだ。








2016年2月27日土曜日

御陣乗太鼓、非暴力で戦ったといういわれに関心と感心。

 御陣乗太鼓は、名舟の催事として石川県無形文化財、輪島市指定文化財に指定されている。このいわれが面白いのと同時に、史実としての扱いがどうなのだろうかとつまらぬ心配をした。上杉謙信が各地を平定して珠洲市三崎町に上陸したとき、鍬や鎌で上杉勢を迎え撃つ準備をしたが、それではあまりに無力すぎるので、村の知恵者(古老)の指図に従って樹の皮で仮面を作り、海藻を頭髪に付け太鼓を打ち鳴らして、寝静まっている上杉勢に夜襲をかけて、陣太鼓と奇怪な怪物の夜襲に驚いて退散させたと伝えられている。

 村人たちは名舟の沖にある舳倉島の奥津姫神の御神徳によるものとして、毎年夏の大祭には、町をあげて祭りの準備に取り掛かり、奥津姫神社の大祭に仮面をつけて、太鼓を打ち鳴らしながら神輿渡御の先駆をつとめて、氏神様への感謝をする習わしとしてきたという。
 
 20名ほどの打ち手が、日常は能登のホテルでの公演などで、活動している。このほか海外での公演も行っており、テレビ番組への出演もこなしているとのこと。今回初めてホテルでの公演を見て、その太鼓と「振付」の迫力に驚いた。夕食後の酔いがすっかりさめるほどだった。

 ホームページに「日本においては伝統芸能や文化財に対する保護育成のための助成などはほとんどないというのが実情です。ヨーロッパや韓国などでは助成されるケースはよくあるのですが。」書かれており、日本に文化を伝承していく困難さがここにもあるのだと政治の貧困さを知らされることになった。

御陣乗太鼓







2016年2月24日水曜日

海風に晒された立木が能登の象徴の一つ

 枝振りが良い岸壁沿いの木はないかな?と「新しい着想」の狙いを定めて二日目の旅となる。次は輪島のはずれの宿泊なので、移動はゆったりとした時間がとれる。輪島までの道は断崖の道だから、狙いの枝振りの木はいくつも目に入る。枝の先が海風に曲げられて、一様に同じ方法を向かされているのは、気の毒なようでもあり見方によっては滑稽でもある。

 人の場合なら同じ向きに敬礼するような連想で行くと、面白いどころでなく気持ちが悪くて願い下げということになる。能登にとってはそれも当たり前の景色なのかもしれないが、「近代的都市」に棲むものには、「絵」となるのがおかしなことだ。

 白米千枚田に着いた時には雨が多めになり、撮影に意欲がもうひとつ湧かないが、田に雪がないところにたまった水が光って見え、ライトアップの仕掛けがポツポツと輪郭を見せて、それだけのみの変わった景色が撮れた。雨の中売店のお婆ちゃんが、一人きりであまり訪れそうもない客を持っていた。かつては千枚田を使って米を作っていたんだと、自慢げに話をしていた。コメ作りが農業者の手から離れて、「オーナー田んぼ」になり観光で成り立たせると言う「世に連れる」姿は、なんともはかない。

 名舟漁港はこれまで来ていながら、こんなところに鳥居があるとしかわからなかった。御陣乗太鼓の発祥地で、海に立てられた鳥居が、象徴として存在していた。御陣乗太鼓は731日に、催しがあるらしいと後から判った。曽々木海岸もいつも立ち寄るところだが、鳴かず飛ばずの様で同じものしか取れなかったという印象だ。