「石切山脈」は以前テレビ報道で見たことがあり、一度は行ってみたいものと思っていたところだった。「『石切山脈』とは約6,000万年前に海底深くて長い時間をかけ冷えて固まった花崗岩の一種で、日本橋や東京駅、国会議事堂、最高裁判所など 、全国有数の歴史的建造物に使用されてきた」という説明がある。「歴史的建造物」が企画されそのために利用された当時なら、地球温暖化にどれだけの温室効果ガスが…を心配する必要はなかった。しかも使った「花崗岩」がいまだに「現職」であることにちょっぴり感動した。昨今の「都市化」への暴発的なのめりこみ(日本中の山から石灰岩を削り出し、鉄骨と砂利、コンクリートを投入)とは象徴的な違いだ。「持続可能な…」と言い分けめく言葉を使わざるを得ない状況になったのも当然のこと。石切山脈のミュージアム的容姿と、事業の緩やかな活気をカメラから覗いて、感じたところがあった。
虚鯊は「ウロハゼ」。関西で好んで食べられている。すしネタでもいけるとか。「あーそーべー」は山形の方言で、一緒に遊ぼうとの意味。ウロハゼは関東の海でも増えてきているもよう。温暖化の影響かもしれない。夏のハゼ釣りのとき、マハゼに混じってつれるが、「つりの競技会」となると、邪魔者にされることがある。
2021年12月22日水曜日
2021年12月19日日曜日
那須烏山の「竜門の滝」はまた立派なもの
2021年12月16日木曜日
“小砂焼”はこの地の土が使われた
栃木県那須郡那珂川町小砂にある「小砂焼(こいさごやき)」、天保時代の水戸藩営御用製陶所という歴史をもっているとのこと。一昨年に写真ゼミの撮影会で、益子と笠間の地を回って歩いた経験があったので、様子は想像するのは簡単だったがちょっと気軽に構えてしまって…(もっとも時間が短くて「撮る」わがままから言ったら、問題にできないが)。とはいえせっかくのシャッターチャンスと気を取り直して、コンパクトカメラ(ちょっといいやつ)をもって、案内の若者の後に皆でしたがった。こうなると空港で有名人を待ち構えて、その瞬間をバシャバシャと「質より量」みたいな撮影をする方法ならいいかなと思った次第。(そうなっただけ)そういう懐の薄さをさらけ出して、ともかくシャッターを押すだけに腐心した。せっかく皆に歴史と技術などの説明をしていただいたのを聞きながらのことで、肝心なところはすっ飛ばしてしまったかもしれない。
2021年12月14日火曜日
寺は古めいた雰囲気が素晴らしい 雲巌寺2
駐車場にバスが停ると渓流が目の前を横切っていた。渓相がよくて、魚もいるのかと思えるほどだった。太鼓橋を渡り少し長めの階段を上っていくと本堂がある。お寺はそう大きくはなくて、観光地によくある派手さはなく、悠然として時を過ごしてきた雰囲気があり、静かなたたずまいだった。京都や奈良にいるのかと思うほどの格式も感じられた。特に今の時期だからこその紅葉やコケの表情が、秋の化粧をまとって、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
2021年12月12日日曜日
今度は一泊二日の旅で栃木県那珂川町、那須烏山市、笠間市
退職者会の旅行はいつもバスの旅を企画してくれる。旅には写真撮りを眼目にしているので、連れて行ってもらう気楽さでご厄介になる。昨年は中止に追い込まれ、今回はいまだのコロナ下でのことで、今回は定員が少ない計画だった。出かけることを慎重に考える人たちもいるようだった。
20人程度の定員を少しオーバーしたとことで、自家用者を利用して賄うことになり、そこに同乗させてもらって回ることになった。役員の中に旅先の情報をよくわかっている人がいて、いつも実に巧みな訪問先を選定して、組み立ててくれる。自分は有名な観光地ばかりを体験しただけなので、手前勝手ながら写真を撮る動機で参加するのにとても都合がよく、足の不調な状態では神仏の加護かと思えるほどありがたい。
今回は栃木県の那須あたりをめぐるコースで、旅先として期待が持てるコースだった。ところが、最初の訪問地「雲巌寺」がまったくの偶然で、今年5月に中止になった写真展で、その雲巌寺を作品したものが展示の予定になっていた。展示会は没になって、ホームページでの紹介になってしまっていた。巡りあわせというか、コロナのおかげとは言いたくないが、この時期に訪れることができたのは不思議な思いだった。
2021年12月10日金曜日
寄り道も終わって帰路へ、「絵」にはならないかもの写真
コロナ下の落ち着きを見計らって、しばらくぶり出かけた旅もあっという間に終わった。終わってみれば短いのはいつものことなので、いつもとの違いをカメラに収められるのが何よりの記録になる。シャッターは何回押しただろうか数えてはいないが、気の向くままに秋の紅葉に出会えて、写真が撮れたことで、一昨年からの留飲を下げた思いはある。写真を愛でつつ秋の紅葉が撮影できるのは、何よりなのはもちろんのこと、紅葉の終焉にむかうあたりの景色も捨てたものではないと思う。とはいえ「写真」として成り立つのかどうかはわからない。ただ間違いなく、目に映る寂しさも表情ではあるし、枯れ枝の先の一枚の葉が落ちないでいるなどというのは、絵になると思うのだが難しいだろうか。
でも、その写真が共感得るということになるになるのは、難しいだろうかな。「枯れ葉」など見せられたら、怒る気持ちも想像できないわけではない。人間なら生まれた時からこの世を去るまで、「生きている意味」を実感させられる。人間だけが大切なわけだから、生きているものすべてを一目おく人間の余裕を持ちたいものだと思う。人間がいくつで亡くなるかが問題でなく、それ以前の枯れ葉の一枚であったとしても、生きているもののガンバリっていう感じを表象させて、ちょっといいんじゃないのかな。