2022年11月6日日曜日

円形校舎(港町小学校)の古い歴史とハゼ釣り

 23日、呉線川原石駅にある呉市立港町小学校は駅に接着するように立っている。「円形校舎」は、紹介してもらいながら見たGoogleの地図でみていたから、イメージ通りだった。この学校もポイントを置いてしっかり撮っていこうと構えていた。しかし思い入れどおりとならず残念にも、中に入れることができずに周囲から眺め撮ることしかできなかった。

円形校舎にも敗戦後の歴史あり

 ~円形校舎とは敗戦後の時期に全国で100校くらい建設されたとか。敗戦後教育基本法、学校教育法制定下、制度的前身がない中学校は施設が不足急増された木造校舎は粗雑で、台風のたびごとに壊れていたらしい。文部省が建築学会に学校建築の標準化を依頼して、東京都建築局が建築モデル指定した新宿区西戸山小学校などの設計に採用された(1950年<昭和25年>)。大成建設の設計技師だった坂本鹿名夫氏がかかわり、のちに独立して、全国の円形校舎建設に貢献した。しかしベビーブームに対応する増改築に適合しないことで、60年代後半には建設されなくなった。2010年代前半には約30棟が残存という状態になった(ウィキペディア)~。

 現在は日本中でどれだけ残っているだろうか。周囲の状況を見ながら「その頃」からの時間経過を想像するのが精一杯のところだった。この地には、友人が通っていた呉市立片山中学校も円形校舎だったが、2017年に年度解体しまったという。彼はその写真をきちんと撮って残している。残存するものは東京にも関東第一高校があるので、これも見る機会があればと思う。ハゼ釣りの方は、友人が下見もしてくれていたが、相手をしてくれたのはクサフグだけだった。やはりもう少し早い時期がいいのだろうか。とはいえ瀬戸内海で釣りをしたのだから…。




校舎下の石垣に防空壕の後がある












 

2022年11月4日金曜日

屋台という「平和産業」が継がれる

 初日の夕刻に仕事から戻った友人と会い、挨拶もつかの間飲み屋に向勝って歩き始めた。刺身が美味かろうと期待して、それなりのつまみにしながら、スカイプでは味わえない交流をした。何を話したのかちっとも覚えてはいないが、そのあと二次会はラーメンを食べようと「屋台」を案内してもらった。公園の敷地に上下水道と電気が利用できる施設がある屋台として観光地になっているところらしい。屋台の存続をかけた歴史があるとあとからわかった。

呉の屋台の歴史

1886年(明治19年)に第二海軍区軍港に指定、1889年(明治22年)の呉鎮守府の開庁、本格的な海軍基地の建設が進められ工廠や海軍関連施設が次々に建設。全国各地から人々が集まり市街化が進み、1902年(明治35年)10月1日に市制を施行という背景のなか1924年(大正13年)には「うどん屋台」が26軒存在していた。そもそもの始まりは大正時代頃で、軍事態勢の時代に生まれた歴史という面を持っているわけだ。

~道路交通法改正により規制がかかり1966年(昭和41年)に屋台組合、呉警察署、呉市の3者協議により、市内の屋台を蔵本通り歩道に集約し、それ以外の地域での屋台営業は認めないということになった。1983年(昭和58年)には「都市景観モデル事業」の指定を受け、立ち退きの危機となったが、屋台組合や市民から屋台を存続させてほしいとの要望を受け、1986年(昭和61年)に市の負担で屋台のためのインフラ整備をおこなったそう。当初の20軒は2000年には8軒となり観光客、市内の企業関係者、関係団体から屋台の衰退を惜しみ、再生を求める声が。呉市は「蔵本通り屋台活性化懇談会」を設置しました。2002年(平成14年)に懇談会の検討結果を受け、警察は道路使用許可は新規に出さないが、屋台営業が継続しやすいように、既存の営業場所を道路交通法の規制対象外とするため屋台設置場所を道路区域から除外しました。さらに、呉市は新たな屋台営業者を公募すること、既存営業者については配偶者又は子の承継を認めることという方針を打ち出した~。

「地方の古き良き屋台」呉氏屋台の歴史と現在

 屋台といえば、めったなことでおめにかかれることはなくて、「都市化」とともにほとんど消去されてしまったように思う。これが市民の声で上下水度と電気が使用できるという場所(場所と言っても歩道上)を確保して継がれるとは、なんともうれしいこと。「軍国の香り」のなかに「平和産業」が生きづいているのだと思えるのもうれしい。














2022年11月2日水曜日

リュックのカメラがだんだん重くなる

  汗を拭きながら「かつて軍港として栄えた」とパンフに紹介してある「入船山記念館」に行ってみることにした。旧呉鎮守府長官官舎、旧呉海軍工廠時計、急高烏(たかがらす)砲台火薬庫などが移築されている施設で、東郷平八郎が、1890(明治23)年からの約1年7か月間、 呉在任中に住んでいた家の離れ座敷も移築復元されていた。

 最初に行った「てつのくじら館」(潜水艦)とこの記念館を見ただけでも、呉の歴史が「軍国の歴史」に浸かってきたところだということが、いやおうなく感じさせられる。自衛隊の建物にある塀に、にこやかで元気のよい入隊勧誘のポスターがずっと並べて掲示されているのを見て、ロシアの徴兵と重ねてみてしまった。













2022年10月31日月曜日

呉の「軍国の香り」観て回る

 友人が住む街は広島県呉にある。話を聞きながら、訪れてみたいという気になった。つりの会の会議でずいぶん前に行ったことがあり、そのときにしたハゼ釣りが思い出に残っていて、しばらくやっていない釣りもいいなと、旅の動機が膨らんだ。事前にたくさんの「観光案内」情報を知らせてくれて、イメージをつかめたのはよかった。観光地はさておいて、街の歴史が見えるようなところと、注文を付けさせてもらって、日程が出来上がった。

 初日は友人が仕事だったので、一人で呉の観光地を中心に回ることになった。潜水艦のモニュメント(本物らしい)がドカンとおいてあり、内部を紹介する展示施設を観た。こんなものかという以上のことはなかったが、機雷の掃海にしぼった掲示などは、生臭さを感じさせないということなのだろうか。来観者は多くはないが、若者が潜望鏡から眺める港の景色を見て何を思うのだろうと気になった。カメラ以外の荷物が入った手提げのバックはホテルに預けてでかけたから、カメラのリュックを担ぐだけでよかったものの、気温が高くなってまた夏かと思わせる気温になった。














2022年10月25日火曜日

呉の街、川岸のベンチに座る人

 今日は傍らに自転車が置いてある。昨日と同じところで「占拠」している。遠すぎて、スマホカメラでズームしても、同じ人かどうかよくわからない。隣の公園で掃除を一人でしている人が、昨日はいた。探しても見当たらない。川の真ん中にあるコンクリートの島に昨日いた鷺もいない。川と平行して、山に向かう道路の銀杏が、昨日より少し黄色が濃くなったかな。朝の斜光で光って見える。ホテルのレストランからの眺めは見飽きない。(スマホから投稿)




2022年10月21日金曜日

読者会の良さ

 モーニングショーで、スマホにとらわれて「脳疲労」になっている人が多いという話をしていた。年中使いこなす人は、集中してとらわれてしまって、寝る直前まで見てしまうことがあるという。かくゆう自分も寝しなに見てしまうことがある。そういう生活は脳にとってとてもよくないとのことだ。そういえば「寝落ち」という言葉もあるらしい。脳疲労の対策は身体を動かしたり、楽しくとりくめることをして、脳に違う刺激を与えることが必要だという。読書もいいだろう。私の読書は読者会のために、ストレスを余分に被ることにあるけれども、また一面脳の働きを変える意味で良いことになるのだろう。写真を撮るということも、違った分野の「脳」を使っているわけで、良い写真が撮れなくて苦闘するストレスが効果的なことになる。写真の展示会やら例会やらのあとに、一杯飲むのもまた「脳」のために良いことだと、そこまで行くと手前味噌か。

 一枚目の写真をどこで撮ったか忘れて、グーグルマップのタイムラインを見て、近所の店で撮ったものと分かった。アルコールが入ると無性にシャッターを押したくなってしまう。いやこれも病気っぽいかな。






2022年10月15日土曜日

雨上がりの公園で

 さる公園で撮った。子供たちのグループと親子連れが楽しそうに遊んでいました。子供たちが気が付いてポーズをとってくれた。お父さんは雨上がりで濡れているすべり台を、ものともせず子どもと一緒に滑ったものだから、お尻のあたりがビショビショになってしまった。子供たちに「学校は休みなの」と聞いて、言ってしまってから休日と思い出した。さすがに「今日は休日だ」という返事はなくて、休みだと素直に話した子供たちは可愛い。