2022年11月15日火曜日

下蒲刈島から先、大崎下島に江戸時代の足跡があった4-4

 島は港から発展した足跡が残されている。江戸時代に交易で船が活躍していた。「地乗り」と「沖乗り」という航法の違いが島にやや異なった港町形成になった風でもある。当地に行ってから分かったことなので、あらかじめ分かっていればその点も考えてみて周ることもできたかもしれない。なにせ盛りだくさんの「見て歩き撮影」なので余裕がなかった。

観光パンフから~~~

「地乗り」とは、中世以来の航法で、山などを目標として沿岸部を航行するものである。昼間航行が原則で、目的地までは相当の日数を要した。鞆(とも)・田島・尾道・瀬戸田・忠海・竹原・三之瀬(さんのせ)・倉橋島・宮島はその当時から発展した港である。近世、「沖乗り」が出現すると、御手洗・鹿老渡(かろうと)など新しい港が台頭してきた。

~~~~~~

 「三之瀬」が「地乗り」の港で、本土に近い場所に位置した。ここは鞆の浦と同じように北前船の寄港地だった。そこは観光地として整備されている様子だったので、通り過ぎてしまった。御手洗港はこの4島目大崎下島にある。ここが「沖乗り」で発展した港町とのこと。江戸時代には盛んに交流がされたので、航海術の向上でより遠方からの物資や人の往来によって、経済もより発展したのだろうと想像される。

 乙女座は1937年(昭和12年)に建てられた劇場で、戦後から1960年代までは映画館として使われた。その後ミカンの選果場になり2002年に元のように復原されたとのこと。とても立派なもので、現在も大衆演劇、能、舞踊、漫才などの公演、無声映画の上映などイベントに活用されている。

 御手洗には江戸時代に4件の遊郭があったそうで、そのうち1軒だけ建物が残っていた。中に働き手の手形の痕跡などがあるとのことだったので、見たいものだと思ったが、現在は中には入ることができなくなっていて残念だった。

 港が開かれることで町(村)が発展していく歴史を、目の当たりに実感してこの旅の充実感が高まった。旅が終わった後も、NETを検索しながら情報を重ねて思いだし、味わっている。





遊郭 若胡子(わかえびす)





櫛とそろばんを売っている

乙女座








2022年11月13日日曜日

廃校になった小学校に行ってみる 4-3

~下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、最後は岡村島へ走る~

 三日目の後半は西方の下蒲刈島から5島を渡り歩き、瀬戸内の広さと島の多さを実感した。おおよそ島は、「山」なので道路は海岸縁を通っている。ポツポツと集落が点在して、日本のあちこちにある風景と同様の佇まいを見せている。この様子を見て、騒々しく大きなビルを建て続けている「大都会」との対比を考えさせられる。富の集積を重ねる都市部の雑踏とは雲泥の差がある。

 しかし都会で極上の生活をしているのは一部であることも事実。地方との格差は広がり続ける。もうちょっとゆっくりとした時間の流れを要求するのは理不尽なことだろうか。下蒲刈島に友人が通っていた小学校がある。子供が少なくなって今は廃校になった。廃校になっても、見学で訪れる人を受け入れているのか、建物の敷地と周囲に入ることができた。廃校になる学校は多いという。むろんここに限られたことではない。

 少なくとも自然の環境に恵まれた場所にある施設が、使用されず放置されたままとは…。公共事業という名の経済対策で、これでもかというほど瀬戸内に橋を造設した結果が、このありさまとは。「総括はどうするの」という言葉が思い浮かぶ。いずれ校舎は壊されることになるかもしれない。記録として残したいと、二人で写真の撮りまくりをした。












2022年11月11日金曜日

呉市街から島へ渡って歴史を追いかける4-2

 自衛隊呉基地から、本土の呉市街と倉橋島を結ぶ音戸大橋へと移動。そこから10キロ弱ほどで音戸大橋直下に着く。本土側と倉橋島を結ぶ橋が建造されたことにより、音戸渡船が廃止されたと聞いていたので、そこをぜひとも見たいという希望に沿ってくれた。

 渡船場の様子が使っていた当時のまま残っていて、昔を想像してみることができた。船着き場の前は、海際の道路は車がひっきりなしに通り、広くない道路は歩くのに余程の注意がいる。渡船を利用していた頃はそんな危険も少なかったのかもしれない。橋げたの下あたりには、当時をしのべるような建物は少なくなっているようだった。

 倉橋島と隣の江田島までは早瀬大橋でつながっている。そちらには行かず、いったん「本土」に戻ってから、下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、最後は岡村島に向かう。この日の後半は5つの島を周遊するコースになった。(次回4-3へ)













2022年11月9日水曜日

呉市街から付近の島をめぐるドライブ4-1

 あとから思うと、友人の観光のおすすめにもう少し行くべきだったのかと、やや反省の気持ちがでてきた。写真は観光スポットを撮るよりも、昔が偲べるような建物や物を見られればよりいいな、との思いでいたところだった。これぞという対象は、さまざま巡り歩いて濃密な撮影になった気がする。

 ぜいたくを言えばきりがないけれども、下調べをもっとしておけばさらに有意義な内容になっただろう。東京に帰ってから、当地の情報をまた詳細にNETで調べたときに、その中間の情報が不足していることに気が付いた。

 それはさておき、三日目は車で回ってくれるとのことで、最初に旧海軍工廠、呉基地係船堀に行き、「自衛隊と米軍の街」を撮った。観光案内にも「基地関連の施設」がじつに盛りだくさんにあり、日本の戦後からの成り立ちを継いでいる。あまつさえそれが美化されている風景とされている。やっぱり戦後は終わっていない。そんな気がした。












 

2022年11月7日月曜日

円形校舎から瀬戸内のハゼ!残念釣れず!

 円形校舎の近隣を回って、昔の時代を求めて歩いて行った。人影は目立たぬほどの通りをウロウロと動き回る。その雰囲気は都市部のそれとは違う、ゆったりとした空気が漂っていたようだった。撮影を切り上げて、陽射しが熱くなったので公園で一休みすることにした。友人が買い物に行き、湿布薬とアイスクリームを買ってきてくれた。アイスクリームはさすがに暑さの中溶けかかってはいたが、起死回生の力になった。

 「ハゼ釣り」がこの旅の一つの目標だった。いったんホテルに戻ってカメラを置いて釣り竿に変えて、川へ向かう。少し距離のある先の大きな川(仁河川)だった。チヌを狙っていた人がいて帰るところだった。1尾つれたそうで嬉しそうにしていた。餌を購入して川と海の境にある護岸に位置を構えて、しばらく使わずに放置していた仕掛けを、自製の竿に結んだ。自製の竿とは、傷んで使わなくなった竿を修理したもので、様々な調子になるので、味わいがあって面白い。

 先客はクロダイを釣ったと言うし、アサリ採りで入れ物を抱えた人は「楽しんでください」とエールの交換をしてくれた。おりしも上げ潮の時間になり、ザワザワと波が押し寄せてきた。間違いなく釣りの時間が到来した。で、仕掛けを海に投入した反応は、「フグ」。これが随分と間断なくウキを引っ張る。期待のハゼは30尾も釣れれば、「お店に頼んで一杯飲む」という策も考えてはいたものの、とらぬ狸の…となってしまった。




 

2022年11月6日日曜日

円形校舎(港町小学校)の古い歴史とハゼ釣り

 23日、呉線川原石駅にある呉市立港町小学校は駅に接着するように立っている。「円形校舎」は、紹介してもらいながら見たGoogleの地図でみていたから、イメージ通りだった。この学校もポイントを置いてしっかり撮っていこうと構えていた。しかし思い入れどおりとならず残念にも、中に入れることができずに周囲から眺め撮ることしかできなかった。

円形校舎にも敗戦後の歴史あり

 ~円形校舎とは敗戦後の時期に全国で100校くらい建設されたとか。敗戦後教育基本法、学校教育法制定下、制度的前身がない中学校は施設が不足急増された木造校舎は粗雑で、台風のたびごとに壊れていたらしい。文部省が建築学会に学校建築の標準化を依頼して、東京都建築局が建築モデル指定した新宿区西戸山小学校などの設計に採用された(1950年<昭和25年>)。大成建設の設計技師だった坂本鹿名夫氏がかかわり、のちに独立して、全国の円形校舎建設に貢献した。しかしベビーブームに対応する増改築に適合しないことで、60年代後半には建設されなくなった。2010年代前半には約30棟が残存という状態になった(ウィキペディア)~。

 現在は日本中でどれだけ残っているだろうか。周囲の状況を見ながら「その頃」からの時間経過を想像するのが精一杯のところだった。この地には、友人が通っていた呉市立片山中学校も円形校舎だったが、2017年に年度解体しまったという。彼はその写真をきちんと撮って残している。残存するものは東京にも関東第一高校があるので、これも見る機会があればと思う。ハゼ釣りの方は、友人が下見もしてくれていたが、相手をしてくれたのはクサフグだけだった。やはりもう少し早い時期がいいのだろうか。とはいえ瀬戸内海で釣りをしたのだから…。




校舎下の石垣に防空壕の後がある