2016年3月6日日曜日

氷見漁港の周辺は昔の賑わいがある

 4日のルートが入り混じるが、10日に寄った上庄川と漁港は古くからの歴史を感じるところだったし、それをカメラに収めることを目標とした。能登は全域を通じて歴史と伝統がどこにも刻まれていて、写真に限らずその文化を調べ歩いたら、日本のもっと深まった理解ができるだろうと思いながら回っている。

 氷見漁港の周辺もその古きものが垣間見えて、日本の歴史と文化を感じさせるところだった。人に出会えればもっとその思いを深めることができるかもしれないが、通りがかりの人は元々少ないし、しょせん通りがかりの「馬の骨」なのだから、なかなか思うようにはいかない。

 歩きながら、しかし「なにかありそうだった」臭いを嗅ぎ取ることに集中して、結構な時間を費やした。氷見漁港は、もう市場の人がいない時間帯だったのか、烏とサギと鳶が港の中をにぎやかに凌駕しているだけだった。












2016年3月4日金曜日

立山連邦のシャッターチャンスを追って、雨晴海岸、義経岩から富山新港へ

 今回の能登撮影旅新プランは、立山連邦を撮ることだった。4日目は往路になる雨晴海岸で、立山連邦を撮るのが日程になっていた。広々と北西から南東の方向に伸びている雨晴海岸からは、立山連邦が遠望できる。カメラを持っている人は誰でも撮りたくなるポイントだ。

 この日は朝天気が良かったのだが、なぜか誰も朝陽を撮りに早起きして…と言う声をあげなかった。朝食をのんびりと摂り、コーヒーをしっかり飲んでからの出発だったから、海岸にでたときは明るい陽射しが輝いていた。そこにカメラ道具をリュックに詰めて海岸の右の方を狙っている人がいた。その人は今朝早く朝陽を撮ったと言い、「私は今また来てみたのですが、今頃来てもダメです。」とダメ出しをくらってしまった。朝陽なんかという気もあるにはあったが、ちょっともったいなかったかなと少々反省をした。

 朝方には大勢の写真愛好者がきているそうで、海にせり出している石のブロックにでていくといいのだと、場所を指さして教えてくれた。そこから、「義経岩」の立山連邦のビューポイントに向かい、新高岡までの途中でも立山連邦の眺望を追いながらの行程になった。富山新港の貯木場からの景色は拾いものだったかも知れない。







2016年3月2日水曜日

観光資源という言葉に抵抗を感じるな

 資源というと「金」に結びついたイメージで、すなおに飲み込めないものを感じる。日常の生きるための事業活動によって手に入るものが、生活の大部分を支配しているのだから、否定することや無視することもかなわないわけだが、「ナントカ資源」「資源化」などと地球上の存在するものを資源として見立てて、事業活動に結びつけるということに違和感がある。

 地球規模で見れば、温暖化の原因として鼻つまみ者になってくる原油生産も、値段が下がっても生産を縮小せず、「競争で勝つまで」掘るというところまで陥ってしまって、「事業」の性格が歪んでしまっているのではないかと思う。原油は戦争の種にもなって、その財貨で兵器までまかなわれるとなれば、人類史の汚点にもなっているのではないか。

 観光も多分にもれず資源として、人を集めて金を落として行ってもらうという方法がまかり通る。必死で地域経済を活性化させるのは、今無視することはできないとではある。世界遺産もその最たるものに利用されて、またそのことに人が新鮮さを求めて訪問すると言う仕掛けに入っていく。それが間違いだとは言えないが、人が歩んできたことや文化としての保存を大事なものとして、後世に引き継ぐという視点からは、どこかネジ曲がっているという気がするのだが…。


世界農業遺産の白米千枚田にはちらりと寄っただけだったが、見るたびに観光農園が農業の発展なのだろうかと、そんなことを考えてしまう。雨の中でポツンと人形を販売していたお婆ちゃん、撮らせてもらえばよかった。写真の幅が広がっただろうと反省。能登三日目、氷見漁港と上庄川周辺を撮る。歩いているうちに雪から晴れになる。他と同じように人気は少ない。













2016年2月29日月曜日

能登、曽々木海岸のおもしろさは

 先日のブログで、「泣かず飛ばず」と書いてしまった曽々木海岸は、これまでも立ち寄ってはシャッターを切ってきた。同伴者の身分であるゆえのことで、リーダーになると撮影場所の選定にその軋轢もまたあるだろう。そんなことは斟酌なく他人事のように言うのも実は失礼になる。

 駆け出しの「写真や」にとっては、選択された場所を決めるという重責を免除されているわけだから、あまりに勝手な言動はまずいかなと、少々の反省もしている。正直なところ、どこでもシャッターを押せばいいのだから写真は撮れるわけだし、曽々木海岸は、「自然美と豪快な断崖風景」という観光が前面に出されているところで、能登観光のスポットとしてかかせないところなので、ここを除くわけにはいかないのだろう。

 この2月の時期には、海風がすさまじく吹き荒れて、今回は風雨があたるという絶好(?)の機会に遭遇した。海風で岩に当たった波が豪快にはじかれる場面は、写真には確かにいただける。ゆえにそれプラスアルファーのものを手にしなくてはならない。「観光資源」とここで暮らしてきた「証」の、せめて匂いでも撮れればというところだ。








2016年2月27日土曜日

御陣乗太鼓、非暴力で戦ったといういわれに関心と感心。

 御陣乗太鼓は、名舟の催事として石川県無形文化財、輪島市指定文化財に指定されている。このいわれが面白いのと同時に、史実としての扱いがどうなのだろうかとつまらぬ心配をした。上杉謙信が各地を平定して珠洲市三崎町に上陸したとき、鍬や鎌で上杉勢を迎え撃つ準備をしたが、それではあまりに無力すぎるので、村の知恵者(古老)の指図に従って樹の皮で仮面を作り、海藻を頭髪に付け太鼓を打ち鳴らして、寝静まっている上杉勢に夜襲をかけて、陣太鼓と奇怪な怪物の夜襲に驚いて退散させたと伝えられている。

 村人たちは名舟の沖にある舳倉島の奥津姫神の御神徳によるものとして、毎年夏の大祭には、町をあげて祭りの準備に取り掛かり、奥津姫神社の大祭に仮面をつけて、太鼓を打ち鳴らしながら神輿渡御の先駆をつとめて、氏神様への感謝をする習わしとしてきたという。
 
 20名ほどの打ち手が、日常は能登のホテルでの公演などで、活動している。このほか海外での公演も行っており、テレビ番組への出演もこなしているとのこと。今回初めてホテルでの公演を見て、その太鼓と「振付」の迫力に驚いた。夕食後の酔いがすっかりさめるほどだった。

 ホームページに「日本においては伝統芸能や文化財に対する保護育成のための助成などはほとんどないというのが実情です。ヨーロッパや韓国などでは助成されるケースはよくあるのですが。」書かれており、日本に文化を伝承していく困難さがここにもあるのだと政治の貧困さを知らされることになった。

御陣乗太鼓







2016年2月24日水曜日

海風に晒された立木が能登の象徴の一つ

 枝振りが良い岸壁沿いの木はないかな?と「新しい着想」の狙いを定めて二日目の旅となる。次は輪島のはずれの宿泊なので、移動はゆったりとした時間がとれる。輪島までの道は断崖の道だから、狙いの枝振りの木はいくつも目に入る。枝の先が海風に曲げられて、一様に同じ方法を向かされているのは、気の毒なようでもあり見方によっては滑稽でもある。

 人の場合なら同じ向きに敬礼するような連想で行くと、面白いどころでなく気持ちが悪くて願い下げということになる。能登にとってはそれも当たり前の景色なのかもしれないが、「近代的都市」に棲むものには、「絵」となるのがおかしなことだ。

 白米千枚田に着いた時には雨が多めになり、撮影に意欲がもうひとつ湧かないが、田に雪がないところにたまった水が光って見え、ライトアップの仕掛けがポツポツと輪郭を見せて、それだけのみの変わった景色が撮れた。雨の中売店のお婆ちゃんが、一人きりであまり訪れそうもない客を持っていた。かつては千枚田を使って米を作っていたんだと、自慢げに話をしていた。コメ作りが農業者の手から離れて、「オーナー田んぼ」になり観光で成り立たせると言う「世に連れる」姿は、なんともはかない。

 名舟漁港はこれまで来ていながら、こんなところに鳥居があるとしかわからなかった。御陣乗太鼓の発祥地で、海に立てられた鳥居が、象徴として存在していた。御陣乗太鼓は731日に、催しがあるらしいと後から判った。曽々木海岸もいつも立ち寄るところだが、鳴かず飛ばずの様で同じものしか取れなかったという印象だ。








2016年2月20日土曜日

小さな港で能登の「らしさ」を切り取る

一泊目の田中旅館には、「まれ」撮影の関係者やら有名人が訪れている写真が残っていた。輪島からそう遠くないところで、海側に絶景があるというわけでもない、かえって瀟洒なものがないことの価値が、彼のドラマの筋立ての中にも使われて、日本の原風景を見ることができたのは共感があったものだろう。


 今風の観光立地で金科玉条のように重きを置かれたら、この地の将来がどうなるのかと、おせっかいながら思う。その価値は決して「金勘定」のはずがない。よくあるレジャー施設が誘致などで、地元の生活やら価値が貶められる…とは個人的な妄想かもしれないが、生活の再生産がなりたっていれば、それも価値があることではないかと余計なことを思う。間垣が大沢、上大沢のいずれもきれいになったが、そのあり様を見てつまらないことを考えてしまった。

 間垣の修理が高齢になるにしたがって、難しさを抱えているという現状が見えなくなった。きれいになったことを悲しむということではないが、善しとすることなのかどうか言い難い気がする。田中旅館を出るとき、雨も降ってきたし、皆なんとなく大沢地区を離れることに異議はでなかった。天候の具合もあったしこれまで撮った以上のものが手に入るのかという判断だったのだろうか。

 輪島に向かう途中、実はこれも以前には立ち寄ったところなのだが、「鵜入港」で車を止めた。道路の上から俯瞰してみると小さな港で歩き回りやすいと見えるところだ。上の道路で車を止めて結構な時間を使ってカメラに収めた。























2016年2月17日水曜日

新しい写真ポイント探しながら能登の旅

 輪島の大沢町の旅館に向かう途中、北前船で栄えた黒島に寄って写真を撮る。来るたびにここはポイントとして、集落の小道に入り込んで、皆が散って撮り歩く。道で出会った婦人に挨拶したら「どこから来たね?」と聞かれて、ここが船乗りの町だったと話をしてくれた。そのとき北前船のことに思い至らず、妙な返答をしてしまった。せっかくあった地元の人なので、写真をとらせてもらおうかと、お願いしたのだが遠慮されてしまった。

 次に行った總持寺(大本山總持寺祖院)も交易に関わってきたところとして有名だと後から判った。能登地震で壊れてしまったため、まだ一部改修中だった。
 「能登半島の北前船ものがたり」(HP)に、「かつて、日本海側が「表日本」と呼ばれ、交易によって栄えた時代があった。能登の北前船主たちは、海運業で巨万の富を築き、寄港地は大いに賑わったのである。そして、北前船がもたらしたのは交易品だけではなかった。大庄屋であり、北前船を五艘も所有していた上時国家と、船で全国のネットワークを組織した曹洞宗(そうとうしゅう)大本山・總持寺祖院。能登の北前船の二つの拠点を通して見えてくるものとは。」と、かつては表日本と称された歴史が紹介されている。

 古くなったものに興味もあるし、焦点をあててカメラに収めれば、上手く行けばその歴史の臭いでも手に入れられればいいかなと思う。壊れかけた建物や小舟などにピントを合わせていく。潰れそうな建物も、廃墟も舟にもかつては活躍して脚光を浴びた時があっただろう。その記録を残してどうなるというあてもあるわけではないが、風光明媚ばかり追いかけるだけではつまらない。長い歴史を経て文化を形成したものだから、ちょっとばかりの撮影で表せるわけもないが、何かが見えてくるのを期待して撮り周った。