2016年6月30日木曜日

写真がちょっとはよくならないかと期待して

 今は、平和な国(戦争する国ということの真逆の対極)であることを否定して、またぞろ侵略戦争を肯定する時代への「岐路」「分かれ道」ということで、来年の写真展のテーマ設定を検討している。前回の「共生」もなかなか難しいものだったと思うが、概念の広さが許容されていたので、なんとなくまとまったようでもあった。

 現代の瞬間をテーマによって括ってみるのは、写真展でのそれぞれの主張が個々バラバラであるよりは、迫力が増してくるような気はする。ただ、テーマにきっちりと当てはめるような作品をと考えると気が重くなってくるし、なによりこれまで自分の感性なり、シャッターチャンスで撮ってきたものとは違ったものになるということもある。撮っている自分の写真が、テーマが掴めきれていないということから起きていることなのかもしれない。

 そうではなくて、このテーマに沿うポイントと瞬間をこれから切り取っていくことを考えることが、写真力を増すことにはなると考えるべきなのだろうか。自分が写真を撮る瞬間は、まさに何のバリアもなく好き放題にシャッターを押すのだから、いわば身勝手なまったく自己流のものだ。さしたる筋道も考えず、整理もしないやりかたなので、今とは言わずともどこかでまとめていかなくてはならないが、それを纏め上げていくことは必要な事であっても、もっとも難しい。

 してみると、やっぱりテーマに沿って撮っていくのがいいということになるのだろう。ところで、どういう「テーマ」がいいのかが、さっぱり頭に浮かばないのはどうしてなのか。おおよその国のあり方の分岐点ということは、当たり前にわかっていることにしても、その分かれ道付近の場面とは写真にするとどんなものなのか?分かれ道なら、今平和であることの切り口はその写真とはならないのか?テーマと己の写真を巡って目下混迷中だ。

撮影2016.5.30
松代大本営地下壕
 地下壕は硬い岩盤
 ダイナマイトを削った穴に
 鉄パイプがささったまま
 朝鮮人が書いた文字
 横穴
朝鮮の人たちがどれくらいいたのかの記録はない 

2016年6月27日月曜日

しかしこんなに早く動く時代ってなんだ その2

 時間が早く過ぎていくのは、「歳のせい」と自己診断しおくとして、身体も頭の動きもゆっくりズムで推移するから、周りが早く動いているように感じるのだろう。それもあるには違いないが、そればかりではない。パソコンだって起動してから動かすまでに、立ち上がりに時間がかかる。その間にコーヒーでも入れようかということになる。それでも2分弱のことなのに、おっとりと待つ気にはならない。
 
 急がなくてはならない環境にはないはずなのに、電車がどんどん来ないと、何をやっているのかとイラつきに近い気分になってくる。ゆっくり、かつじっくりと物事に取り組みたいと思いながら、なぜか追いかけられるように忙しく暮らすところとなる。何かを残していくという大仰な人生でと気負っているわけでなし、胃が痛くなるほど入れ込んで難しいことに取り組むわけでもない。当たらず触らずのやり方でいいのだし、安寧の時がすごせればそれでよい。それが有り様なのだと思いつつ、残っている脳細胞に程よく刺激を与えようと思ってはいる。

 急に飛び上がっては、降りるとき場合によってはケガにつながる。沢沿いの、足元に石がゴロゴロしているところで、最近よく転ぶ。竿をもって仕掛けが枝にからまないように、一歩一歩足元を確かめながら歩いている。先日も危ないからと、自覚的に慎重に歩いたのはよかったのだが、釣りを終えてから竿をたたんで、歩き始めた途端に転んでしまった。備え以上に集中力も衰えているのだと、渓流釣りも命がけみたいな領域に入ってきたのかと、暗然とした思いだった。もちろん仲間には見栄を張って、自分を笑って報告した。

 結局のところ緩やかでないと身が持たないのに、なかなかそういうわけにはいかない。まあ自己責任ということになるのだろうか。忙しいのは世の動きが速いことが、もう一つの事情にある気がする。都知事問題でも珍しくテレビが競って問題を報道し始めたと思ったら、あれよあれよと見る間にもう辞任までいってしまった。もっともこれまで、政府閣僚、議員の「不祥事」が嫌というほど表面化してくるのに、一向に追求できない腹イセもあるから拍手喝さいみたいな気分だ。「癪に障る」ことが多くてうんざりしている側からしたら、一矢報いたい気持ちが増幅しているわけだ。

 ついでにこの際、参議院選挙もあるのだから、きっちりと清算するように「自主規制」を超えて報道しまくってもらいたい。と思っていたら、また覚せい剤報道だ。覚せい剤4グラムが多いの少ないのと、いったいだからどうだというのか。6ケ月も前から内定していて今この瞬間かい?しかもラブホテルで逮捕というセンセーショナルなおまけ付きだ。そんなことより、「イギリスのEU離脱を見抜いていた」という大嘘を記事にしたら面白いだろうに。嘘は大きいほうが人をだませるというが、黙っていたら犯罪に手を貸すようなものだ。その手の嘘を蔓延させるのはいただけない。


2016年6月23日木曜日

しかしこんなに早く動く時代ってなんだ その1

 参議院選挙告示日の第一声を、新宿西口でやるので行ってみた。告示の都度行くのが習慣になっている。今という時代の中にいる実感を持ちたいからだ。テレビや新聞、NETで見ている情報がこのとき結びついていく。政治のしかけがはっきりしてくると、わずかでも政治に参加した気になってくる。政治にかかわることがわかってくることは、380円の交通費とは比較にならないほどの価値だ。

 西口は10時少し前についたが、目的の街頭宣伝と違う人たちが占拠している。かち合ってしまったようで、東口に急きょ変えるというアナウンスを頻りとしている。いままでこんなことはなかったから、なんということかと一瞬思った。「先行者」がさっさとやってしまえばそれでOKということも、社会的常識からいえばどうなのだろう。第一声はだいたい各政党が、同一の場所にかち合わないようにしているはずだ。どうやっているかは知る由もないが、法的にというよりはエチケットの範囲で処理していることなのではないかと思う。かなり前から宣伝物で告知がされていることなのだから、少なくとも知らなかったということにはならない。

 その「先行者」のFacebookをのぞいてみたら、20日のニュースには「22日の街宣は新宿西口で1100からやると書いてあり、21日になってから1000からと変更している。一日前に急にぶつかるように設定したわけだ。先行者は中核派だという情報がNETに出ていた。政権の差し金による後ろ暗いつながりを連想させることだった。

 前日の21日に、シールズの呼びかけによる「野党共闘」街宣があった。少し離れた後方から騒音がするので行ってみると、右翼の街宣車が妨害にきて、カウンターの人たちと「舌戦」を交わしていた。警察が「騒音検数機」(名称不明)と思しきものを、がなり立てている方へ向けて計測している様子はわかったが、警察官や背広服の公安の方々は取り締まる風でもない。それよりその街宣に抗議する人たちに、警察官などが規制をかけているのが目についた。「駐禁で取り締まれ」と抗議をしている人がいたが、一般の路駐なら絶対に捕まるところだろう。警察官が、右翼の行動に抗議する人に笑い顔で規制をかけていたが、あの笑いはどういう笑いなのだろうか。

22日新宿西口

21日有楽町






2016年6月22日水曜日

走って休むのは人の所作

 パソコンと付き合い始めて18年になる。ホームページの作成講習会に少し通った以外は、自力と聞きかじりでなんとか過ごしてきた。現職時代にパソコン導入が始まって、否応なくキーボードにも慣らされてきた昔も懐かしい。退職間近になって、若い職員にこの難物の成り立ちを知るために質問を続けていた。パソコンの開発がどんどん進んで、人間との「親和性」が広くなってきてはいたが、慣れ親しむにはなかなかのもので、おまけに容量と技術開発によって、とどまるところを知らない発展をしている。

 発展をしているなどというと聞こえがいいが、「わからない部分がまた拡大」してくる。年をとってからでも、机上でいろんなことができそうなことが動機づけになっていたし、実用道具というよりおもちゃで遊べるか、脳の刺激になるだろうと期待をのせての付き合いをしてきた。退職後はどうせヒマなのだから、ゆっくりやろうとどれだけやろうと好き勝手にやってよかった。それが今はシロウトでは(多分)最強部類のパソコンを使う羽目になった。

 写真のソフトを動かすためのパワーがいるのだった。たしかに力量があるだけ、ほかのソフトを動かすのにも楽だ。ホームページの更新のときには、元となる資料をモニターにありったけ広げて作業ができる。日記を書きブログの原稿を書くのも日常生活のメリハリを保つことに役立っているのかも。日記もブログも書き込むときには、文字の意味と使い方間違いを避けるため、文字のHP検索も欠かせない。今日のタイトルの「所作」もその意味を確かめたが、「ふるまい」のほかに「踊り」という意味もある。このブログ記事には「踊り」のほうの意味を使わせてもらおう。

 いやこのブログの締めはまだ早かった。パソコンの作業のうち最も広がって重くなってしまったのがメールだ。もっぱらWEBメールを使っているが、メールのアカウントはGmilYahoooutlookso-netスマホメールとの同期と、我ながらそこまでやるかという感じだ。それぞれ役割があって、日常の連絡用、NET購入などの実用、プロバイダからの通知、キャノンやニコンから各種の知らせ用などと、多用しているが、その分だけ整理の手間がかかる。

 見もしないものもあるにはあるが、「いつか見るかも」みたいなケチな根性で録ってある。いつまでもこれではという思いが、ふっと湧いたのを機会に役に立っていないもの、見ていないものを整理することにした。きっと、受信した直後の折に見ないものは、いらないものが多いということなのだろう。有用であってもそれは使っていないのだから「有用でない」ものとすることも整理法かもしれない。


2016年6月14日火曜日

義父の一生が閉じられた

 義父が身罷った。9年に及ぶ不自由な生活から、今は解放されて、自由になったことだろう。一生をどんな姿で過ごしたのかを、周りの人間が思い返す機会なのだと、葬式を過ごしながら思った。なにかに執心し、行動規範をみつけ、悩み苦しみ、人としての有様を追求してきた。そういう一生を批判できるわけはない。毎日のように起こる見苦しい現世の汚れに染まることなく、過ごしてきたのだからそれも簡単なことではない。
 
 生地から東京に出、幸いにも中途公務員として採用されて、経済的にもなんとか生活できる環境に入ることができた。昭和の暗い時代を抜けてきた体験が、悲惨な時代がまたあってはならないことと、飲みながらよく話していた。それも遠い昔のことだったことを今思い返す。

 十二指腸を壊してからはピッタリとアルコールを断った。それから東京と近郊の寺社を歩き回って、「信心」の気持ちを満たしていたようだった。家の食事の世話から生活周りの細々とした雑事もこなし、植木にも身をいれて実によく働いていた。脊椎狭窄症で手術をしてからは、不自由な生活を強いられることになった。寝たきり生活になって、不自由な身を嘆くことがなかったわけではないが、周りに辛さを大声で当たるということはなかった。

 介護の職員からも、他の例を引き合いにして好意的に思われていた。しんどさは当然あったろうに。それは見事な態度というべきで、自分だったらそれができるだろうかと思うことだった。しかし、それは本音に触れていなかったからかもしれない。きっと葛藤があったことには違いない。今になって触れることはできないが、聞いていればよかったこととも、言い切れないかもしれない。良し悪しはともかく、本音を語っても時間がたつと変化するということだってある。

 「傍目」ではわかりきらないが、ともかく40年以上付き合った日常の生活では、裏表はまったくない人だった。その生き方は立派なものだった。病後長い時間だったが、日に日に弱っていく姿に人の終末へのステップの有り様を教えてもらった。

 11回目の緊急入院で、これまで何回かあった危険状態とまた違った状態を感じ、身近な人が集まって見守り言葉を交わした。血圧が回復して小康状態になったことで、いったん家に帰ったが、夜半に再度連絡があって病院に駆け付けた。それが最期の瞬間だった。




2016年6月9日木曜日

月刊誌世界 6月号特集「死の商人国家になりたいか」を読んで

「世界を読む会」に今回は参加できなかったので、感想を会のページ(Facebook)にアップしようとパソコン打ち始めたら、「死の商人」は最初のワードに出てこず「詩の証人」と出てきた。最近の変換技術はずっとよくなっているから、この次打つときにはでてくるだろうけど。しかし今トップで出てきてほしい言葉だと、「死の商人になりたいか」を読んで思った。第一「戦力」でなく「実力」であり、武器や兵器のことを「防衛装備」と呼ぶし、武器を海外に輸出することは「防衛装備移転」と表現するという書き出しは、なるほどと思うよりハッとした。
 
河野洋平のインタビューで、「ヒロシマでG8の議長会議」を開催し、アメリカの下院議長を説得してヒロシマに来てもらったという話は、かつての自民党政権でもでもやったということで、いまの政権との対比で考えさせられた。同時に「原発資料館に行って展示物を見、被爆者との対話もした」とのことで、今回のオバマ大統領の広島訪問との伏線となったのだろうかという気がした。

 「国策化する武器輸出」(望月衣塑子)は、武器産業の思惑と動きを教えてもらった。こういう書き手がいるのは救われる感じがした。日本の兵器産業は「様子見」もあるにしても、トップセールスで誘導してしまえば、動かされていくのだろう。昨年の東大総長挨拶がNETを駆け巡ったのを思い出した。(東京大学における軍事研究の禁止の原則について一般的に論じるだけでなく、世界の知との自由闊達な交流こそがもっとも国民の安心と安全に寄与しうるという基本認識を前提とし、そのために研究成果の公開性が大学の学術の根幹をなすことを踏まえつつ、具体的な個々の場面での適切なデュアル・ユースのあり方を丁寧に議論し対応していくことが必要であると考える。…

 

高遠菜穂子の「イラク戦争からのはじまった問題意識」からのスタート、体験の積み重ねからの実感と、現場から見る戦争や武器の「移動」の話も、リアルな感じを持った。「武器は人を守る道具でない、人を殺める道具だ」は教訓的な言葉だ。


2016年6月3日金曜日

さあ書けるかブログ

 最近よく出かけるし、それもいつもカメラを抱えてウロウロしながら、同伴の仲間たちのあとかに付いて廻る。己が退職してから写真を撮ろうということにしたのは、自己責任なので、文句を言う筋合いではないのだけれども、少々疲れを感じるのも年相応のことなのだろう。

 ウォーキングと称して外に出てあるくのも、以前ほど勢いよく歩く体力は後退気味だ。頭の回転が「緩やか」になって、ボーっとして日陰で寝たいみたいな気がしてくる。実際本を読んでいても、すぐに上瞼が下がってくる。こうなると、一定程度繰り返しののち、頭が軽くなるところまでは、ページをめくるのがはかどらない。
 なにか事をおこすのも、緩やかにしないと時によっては危ない目にも合う。最近の交通事故でよくある、ブレーキとアクセルの踏み違いによる暴走は、実感を伴って理解できる。そしたら、先日の場合はブレーキを踏んだのに、止まらなかったのでもっと踏んだということだ。しかしこれは絶対笑えないし、そういうものだという解釈をしておかないと危ないだろう。

 それだけ活動量が下がってくると、ブログを書く感覚の時間が開いてしまうのはしかたのないことかもしれない。だけれども、だからいいやとするのか、だけど頑張るとするのかの答えは決まっている。人生は戦いだから。戦争をおっぱじめて人殺しをする戦いならごめん被るが、人生の戦いには参戦することは必要なことだ…としておいたほうがいい。ぐうたらな人間には目標を持つことで、自分を励ますことができる。それによって助かる部分もあるはず。金がかかることもあるが、まだ食うに困るという環境ではないのだから、我儘言っては天の神様にも申し訳ない。

2016年5月25日水曜日

「核兵器のない世界を造れ」が願いだよ

 オバマ大統領が広島にやってくる。この機に乗じて選挙用のパフォーマンスで効果をだそうというのが正解だろう。核兵器廃絶への取り組みが、核保有大国は除いて他国は持ってはならぬという理のない「核拡散防止条約」から抜けださないことには、進まないことははっきりしている。世界のあちこちで戦争状態が起こされているときだからこそ、なんとかしていかなくてはならないこと。危険極まりない「核」使用についてタガをかけていくことは本来大切なことだ。核セキュリティーに成果があったとされる各サミットは核不拡散という本体に切り込めないまま、抜け出せないでいる。

 伊勢志摩サミットに噛ませて、核兵器をなくす行動からほど遠い、「思う」程度のムード作りでは背中を掻くようでも全くどかしい。せっかくの機会になんらかの成果が形成できるようなコメントができないものだろうか。そのためには被爆者との面談もやってほしい。安倍首相が大統領を歓待するということだが、首相の平和に対する取り組みへの期待は、過去ものなかからは期待薄といったところだろう。核兵器をなくそうという願いにまっとうに判断できていないことは明らかだ。

(上記の「帰れ」ヤジの動画は削除されている。こういうところはしっかりやっている)

 このサミットテロ警備のために、最大事23000人の警察官を投入するというびっくりする報道がある。戦争法で他国への交戦を可能にしてしまった結果は、決して「平和」な国際環境を作っていないことの証明だ。このおり、沖縄の米軍属の殺人、小金井市の女子芸大生の殺人事件などが起き、市民生活への「テロ」も目を覆いたくなるほどだ。熊本の地震による窃盗犯時には地元の人たちが夜中に警戒をしているという。報道を見る限りでも、犯罪を起こさないように手を打てるのではないかと思う。沖縄はもう日常茶飯事のように基地があるがため起きていることだし。これも判で押したように「綱紀粛正」と言って言葉をもてあそぶだけのことでは、もうすまされないことだろう。日本を守る?どこがと誰もが思うだろう。

 小金井の事件では、犠牲となった本人も親も警察にはきちんと連絡を取っている。「重要でない一般の人」には手が足りないと、放り出してしまっている。「何かあったら連絡して」という範囲では事足りない。今日の報道では亡くなった本人からも警察に電話がかかっていたという。テロ対策は「予防」の対応であるはずのだから、市民生活の安全安心のためにも、手を尽くしてそのために動く組織であるべきだ。


 パフォーマンスだけに終わらせないということなら、ぜひ被爆者と会って話を聞いてもらいたいものだ。それは核兵廃絶への大事なステップだと思う。沖縄の知事がオバマ大統領に合わせてくれと首相に申し入れたとのことに、報道で「一自治体の長が言うことでない」とコメントがあった。沖縄の基地問題には政府が安保体制を優先させて、一顧だにしない。日米地位協定で「保証」されているからこそ起こっていることに、首長として黙っているほうがおかしい。辺野古基地問題では、会うことも渋る首相が、今回は官房長官と首を並べて翁長知事と会談したのも、ことの重大さからだったからではないのか。アメリカには腰が抜けたような対応しかできず、アメリカとの裏約束で治外法権を保証するのはもうやめてもらいたい。


2016年5月16日月曜日

車に依存しているのがよいこととは言えないが。

 車はいらないという話はあまり聞かれない。こんなに聞こえてこないのは、安全神話みたいなことが出来上がっているのではないかと思うくらい。実際、車がないと日常の生活が成り立たないというありようが重いからなのだ。地方の暮らしの中では車に依存しなくては生きていかれない事情ができあがってしまった。「国鉄」が新幹線建設の資金繰りで民間経営に切り替えられ、その影響で地元の足がどんどん切り捨てられたのも、車依存体質を作り上げる結果につながった。

 だが、現実の有り様から必要なものなのだということで、未来永劫も続くということでいいのだろうか。都市部の事情でいえば朝夕の通勤時に混み合うという道路事情は、都市のキャパシティをコントロールしようともしないで、事務所事業所を都市開発という名で暴発させている結果起きているといえるのだろう。車をいかに通すことかだけに腐心して道路工事を始終続け、終わりのない「公共事業」が鼬ごっこのように続けられている。

 早朝の高速道路に東京目指して運び込まれるトラックの群れは、すさまじい数だ。北…のミサイルが原発ならずとも、外れて専用道路を破壊しようものなら、東京の生活はすぐに成り立たなくなる。そんなことないことがないように、政治の働きかけも期待はするものの、見通しはいまのところないようでもある。

 盛岡の岩手山麓も、車への「依存」は抜きさしならない。車がなければ暮らしは成り立たない。ほとんどすべての世帯が車の所有を「余儀なく」されている。その事情は無視できないが、高齢化していく社会が、いつまで乗りきっていけるのだろうか。問題が目先に迫っているのも確かだ。高速道路の入り口を逆走するのはしょっちゅうあるし、昨日もアクセルとブレーキの踏み違いで、高齢者の車が暴走したとの報道がある。こういった暴走が社会の歪からも多くなっているのは、なんとかして防がなくてはならないことだ。

 運転免許に認知機能の検査を取り入れて、危険度を制御することはあっても、では日常の食材はどうするのかとか、医者にはどうやっていけばいいのかというところまでは、「認知」が及んでいない。高速道路の建設だの自動車産業の売り上げだのという心配は目に見えてあるものの、生活スタイルへの配慮にはまことに貧困な政治だ。車社会を見直そうという考えは、多分結構あるのだろうと思うがマスコミを見ている限りでは、ほぼ議論を見ることができない。

 中国やらベトナムの道路で信号がないとか少ないとかということをよく聞くが、道路はもともと人の生活と移動のために必要なもので、車の必要のためにできたものではない。日本は列島隅々で信号機のないところが消えていく。だからどうなのだろう、生活の効率と便利と安全がどんどん浸食されているのだといえないのだろうか。車がなければいいというわけでなく、必要に応じた「利用度」を慮ることをしていかないといけないだろう。

 キューバとアメリカの国交回復が伝えられているが、キューバでの車の使用は、「使えるだけ修理して使う」ことがあたり前になっており、確かにそれはモノを効率的に利用する上では大切なことといえるわけなのだが、一部の高額所得者は新しい車を所有することへの期待があるとされている。アメリカとの平和共存への道に乗り出したのをよしとしても、日本の車社会実情を重ね合わせるとき、どうなっていくことかと気になることではある。キューバの現代アート展で「とろける車?」が展示されたとのこと。そういう意図での作品なのかわからないが、なにか暗示的なものを感じる。



2016年5月8日日曜日

野島公園でアサリと人間の多様性を見る

 野島公園でアサリ獲りして遊んできた。実は少々疲れ気味の体調で、雨でも降ってくれれば、家でゴロゴロできて「晴耕雨読」ならぬ、たまった本読みをできるかと後ろ向きの気分でいたところだった。そろそろなるべく楽をしたい気分が勝るかというときに、ムチがはいるのは健康にいいに違いない。ここに三日はたしかに寝転がって本を読みつつテレビをみつつ暮らしているのだから、腰が痛くなってくるのも当たり前だ。

 約束通りに、2年前にも行った金沢八景へコッフェルとガスコンロをもって参上した。前回も若い人たちが、友人のUさん夫妻に誘われて集まっていた。顔を知った人もいるが若い女性が何人もいると、こちらが照れる。一つ乗り換えて野島公園で居場所を決めるまでにはさしたる時間はいらない。ビニールシートが朝から吹いている風に飛ばないように荷物で押さえて、身支度して11時の干潮に間に合わせて干潟に入りこむまでは、何分もかからなかった。

 私は前回きたときに、しゃがんでいるのが大変だったので、今回はサボリと決め込んで、カメラ撮影に徹することにした。朝集合したころは、空の半分ほどに一部黒雲まである不穏な空模様だったのに、すっかり予報通りに晴れ上がって気温が上がり、海水に浸かっても冷たさを感じるほどではなかった。眺めるところ随分多くの人たちが干潟の海にいる。めったに見ないことなので、しばらく眺めていた。

 子供連れの家族も年配者も砂をかき分けて熱心にアサリをとっていたが、どこの場所でもこれでもかというほどたくさん獲れる。潮が引いて水が少し残っているところにアマモの群落がひろがっているから、その環境も繁殖に影響を与えているのではないだろうか。アマモの根元に稚魚が遊んでいて逃げようとしない。東京湾内でこうしたところは少ないだろう。ここは海の匂いが確かにする。生態系が保たれていると感じられてうれしい気持ちがする。

 口だけアサリ獲りに参加して、「アサリって殻がそれぞれ違っていておかしいんだよね」などと能書きを言ったのだったが、言いつつ人間だってみな違うのだよなと付け足しして自分で可笑しくなった。ここで人間模様を撮るのが、今日のテーマだったからあれやこれや見計らって、シャッターを押すことに専念した。アサリの殻と同じように人のアサリ獲りスタイルも、さまざまで、しゃがみ込むのは同様にしても浅瀬に座り込んでじっくりやる人、両手を使う人、熊手を使うだけでなく手を砂地に突っ込む人、シャベルでもち焼き網のようなものですくう人、白い塩のようなものを振りかけて、アサリの呼吸を確かめて取る人、それぞれ人百態というところだ。

 座り込んで手際よく四角のザルに砂ごと掻き込んでいるオジサンがいた。聞いてみるとザル状になっている隙間から1.8ミリ以下のアサリは漏れ出るようになっているのだという。1.8ミリ四方の穴が開いている「ザル」は炊事に使うようなものらしいが、その穴の大きさのものが店ではなかなか手に入らないということだ。県の条例で鋤簾(アサリ獲りの道具)を使うことが禁じて、保護をしているのだと話していた。小さいものは残して生かしておくという漁師スタイルの「自然保護」に感心した。神奈川県の水産試験場がアマモの養殖に力を入れていると聞いたことがあるが、こうしたことが広がっていけば海の再生が進んでいくことだろう。皆で大切にしたいものだ。











2016年5月2日月曜日

銀座って深いねー。柳、イチョウ、プラタナス、そして柳に変遷。金春通りへ歩いてみる。

旅の友人との「昼食会」は、このところ銀座4丁目界隈の店でやっている。当然ながらビール&ほかのアルコールをいただいて、「お時間」をぎりぎりまで盛り上がる。追い出しを迫られて、惜しむ心を断ち切って歩行者天国に入り込むことに。「美濃部革新都政が始めた歩行者天国」などという比較的新しい歴史が、どこに記憶されているは不鮮明であっても、こういう空間があることは間違いなくいい。ともかくそこで憩う人たちの間はいりこんで、写真を撮らせてもらう。こちらは一杯ひっかけているのだから、度胸は備わっている。

つい先日、銀座8丁目界隈に「金春通り」があることをテレビで知った。ネットで検索してみたら、息子がやっている「能」の「金春流」と因縁があることがわかった。江戸時代、能の4派のひとつだった金春流に、江戸幕府がこの地に屋敷を建てさせたとのことだ。当時の匂いでもないだろうかと好奇心が湧いた。旅トモに話すと、じゃあ行ってみるかという賛同をもらったので、銀座4丁目からまっすぐ新橋方向へ向かうことになったのだった。

実に「歩行者天国」はいい。何がいいかといえば「憩い遊ぶ」ことで行き交っていることだ。ご多分に漏れず外国の言葉も飛び交っているが、ギラギラした日常と違う人のゆったりした様子が、あの新宿の地下だとか池袋、新宿の雑踏とは雲泥の差がある。人と人との間に空間が必要なのだなと思う。

銀座は柳がキーワードになっている。銀座の柳は明治期にイチョウに替えられたのだが、関東大震災で壊滅状態になり「東京行進曲」で♪昔恋しい銀座の柳♪(昭和4年(1929年))と歌われたのをきっかけにして、この当時植えられていたプラタナスから柳を植えようという気運があがった。後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られ完全復活が宣言されたとのこと。

大ヒットした「たそがれの銀座」(2004年)もこの歴史を語る詩が書き込まれている。

歌詞3番
プラタナスの葉陰にネオンがこぼれ 
思い出がかえる並木通り 5丁目のフユ子は小唄が上手 
6丁目のナツコはジャズが好き あなたを呼んで霧も振る 
銀座……銀座……たそがれの銀座
歌詞4番
♫数寄屋橋は消えても 銀座は残る 
とともにいつまでも 7丁目の酒場で覚えたお酒 
8丁目のクラブで知った恋 あなたが夢をくれた町 
銀座……銀座……黄昏の銀座

ロスプリモスのこの歌、曲の批評に「そのジャンルのうち、『ご当地ソング』のどストライクに位置する。ゆったりとした軽いリズムに乗って暮れゆく銀座の、ネオンサインがともるまでのわずかな時間の情景を歌う。気ままに生きる女たちの情景を。銀座という地名は飾りに過ぎない。あくまで主役は彼女たちだ。」というのがあった。コメントがカラオケファンにとってはうれしい。

海岸線がすぐ近くまであった銀座は地下水位が高いので、水を好む柳があっているという話もある。ところで金春通りの撮影の方は、かつての金春流屋敷の香りとムードがなかなか見えず、もう一つとらえきれなかった。













2016年4月29日金曜日

写真展が終わって、来場者の感想を読んだ

 先日の写真展の来場者の感想を読んだ。「共生」のテーマでやったことを歓迎されて(評価)いる記述があった一方、テーマを設定したことによる写真力「減殺」の意見があった。それぞれの写真がよかったからなのだろうと、やや手前勝手に思った。展示場所が狭いとの指摘は、結果としてなってしまったことなので、展示の全体からどうするのかということもあるかもしれないが、展示作品を減らすのはちょっと難しいことなのかも。

 次回(来年)のテーマ付けが、テーマの選択によってステップアップにつながるものなのか(共生というテーマが特殊なものなのか)どうかは整理しなければならないことなのだろうか。「良い写真」の延長線には「個展」でやるという目標の存在が見えてきた。自分のことはさておくとして、力量のある人は考えるべき位置にあるのだろう。

 「共生」に無理に閉じ込めたという感想は、見抜かれたという思いがする。「共生のテーマ」はその意義や範疇の理解が難しかったけれども、Iさんの「なるほど共生なのね」という言葉が、そこまで入り込んでの感想として印象的だった。写真展はテーマを選ばないでもできるのだろうから、決めたてやったことによってこちらの思いが、見た側から捉えられるのかどうかは多様なので、問題になるのかどうか?私の友人は、写真に対する接触経験は様々なので、テーマを見ろよということまでの要求をするわけにもいかないような気がした。

 写真全体に対する評判は良かったし、写真を撮っている知人、仲間には刺激を受けたという感想もあった。友人たちが写真を見ているときは、邪魔にならないように、なるべく集中し観てもらえるようにした。それがいいのかどうかはわからないのだが、目で追ってなにかありそうだと感じたときにはそばに行って話をするようにした。

 ただ、そのときどういう言葉を投げかけるかが難しかった。写真をよく知った仲間には「いいでしょ」ということも言ったが、乱発すれば押しつけにもなりかねないと思って、言葉は慎重になった。 
 
 写真に写っているものについての話がやっぱり一番多かった。テーマを決めたことで、そこを含めた感想まで引き出すのは難しいことだったが、今後の友人との付き合いもあるので、もう少しわかってくることもあるだろうと思う。テーマを考えあったことは、写真力をひきだす効果はあったのだろうと思う。自分自身何回も写真を見て回って、写真の難しさはもちろん感じたし、作品の明るさ・面白さ・各人の志向の異なり・着想の意外さ・社会性への踏み込みなど、総じて楽しい写真ばかりで、満足した写真展だった。

2016年4月23日土曜日

写真展で覘く新境地

 「新境地といえども細るわが身かな」というくらいのものかなと今回の写真展を思う。自分が撮った写真がどの程度のものかというあたりは、気になるところだけれども、わからないのが悩みどころで、「いいもの」とは眼力のある人でないとわからないことだ。自分が持ち合わせていないのだから、思い込みから抜け出せない悩みは深くなる。

 自分のものを人目に晒すというのは、相当のモノであるか、やっちゃえという開き直りなのかだとしたら、開き直りに該当することには違いない。ともかく、ゼミの一年の決算の展示会に乗せてもらえて良としたい。

 友人にも来てもらって、観てもらってから酒も飲んで、ちらほら写真の感想を聞かせてもらうことは、開き直りの成果ということになる。おまけに次の旅の相談までできるのだから。講評はその道の達人に任せておくとして、こうして付き合いができることは、人生の終盤にきてありがたいことだ。文化、芸術などには縁遠くきていたのだから、短い時間でどれだけのことができるのか、計ることもできないが、「滝に打たれるつもり」が続くことになるのかな。

 やや疲労を感じないでもないけれども、まだこれくらいのことができると思えば、もう少し先までのレールがあるのかもしれない。ゼミの方々や友人知人のみなさんお陰で、人生の一コマとして残ることにはなった。新境地がまだすっかり見えているわけではないが、明日24日までの写真展が終了してから、じっくりと振り返りたいと思う。





2016年4月17日日曜日

渓流初釣り楽しんで春を遊ぶ

 友人の別荘に誘われて那須に出かけた。那珂川水系の渓流が別荘近くにいくつもあって、春先のまだ枝の芽吹きがあるかないかくらいの自然のなかに、入り込むことができる。入り込む最も大きな事情は、釣り竿を片手に持っての「釣り」だ。

 前夜は写真展の作品プリントがあって、5枚を仕上げてからの出発だった。9時ごろ山荘に到着して、宴会を始めたので、翌朝の2時まで盛り上がってしまい、起きだして釣り場についたのは昼近くになっていた。

 以前に釣ったところなので、落差のない流れで危険はあまりないとわかっていたし、友人と別れた後の段取りも決めたうえで、ゆったり気分で釣り始めることになった。ここは別荘地として管理されている裏側を流れている渓流だが、依然来た時とほとんど変わらない環境で、そのためかろうじて自然が保たれているのかと、そんな気がした。「リバーサイドなんとか」という看板が見えているが、こんな山中で建て替えられた看板が少々ミスマッチなおもしろさを感じる。

 水量もあり釣りのポイントもそれなりにあるものの、魚のアタリはさっぱりでない。歩く時のバランスも危うくなってきていることを十分自覚しながら、ゆっくり釣り上るうち、ようやくヤマメが顔を出してくれた。小さめのイワナも釣れてきた。イワナはまだ元気がなくて、餌がごく少なかったときの体力から回復がしていないようだった。

 いまごろは大体そんなものだと、魚がいても餌に食いつかないという気がした。ためしに、いつもは仕掛けを3回仕も流せばやめてしまうところ、10回以上流してみたら食いついてきた。残念ながら水の中で反転して逃げてしまったが、やっぱりあまり食い気がないのだろう。

 ヤマメの習性はとても用心深くて、一度食べ損なうと二度と食わない。というより、こちらはまた同じところへと餌を放り込むが、食べることはない。おそらくは、食べ損なった餌がまた流れてきたのはおかしいという認識ができるということではないだろうか。あるいは、温かくなっていく気候では危険を冒すよりも、自然界に常駐する次の餌を狙うほうが、安全という判断もしているのだろうか。

 そんな自分が釣れなかった事情を、自分の釣り技を差し置いて考えてみるのだが、餌を食わない本当の事情は、わかりはしない。あくまで釣り人側の勝手な解釈だ。ともかくも、少なくなった渓流釣りの幕開を味わうことができて、なによりだった。







2016年4月8日金曜日

防潮堤を見ようと石巻に行く

 復興の遅れがニュースで取り上げられて、東日本大震災復興への振り返りがあった。今はどうなっただろうかと、確かめたいものだと思っていたら、娘から行こうと声がかかった。大きな被害を受けたのにどれだけの復興がすすめられているのか、目で見たいと思っていたようだ。

 実は防潮堤の建設工事が、様々なこれまでの生活やら、慣れ親しんだ海との関係もあまり考慮されずに、建設が進められているということを聞いて、どんなものかと見てみたいと思っていた。

 日曜日に出発して、一気に女川原発を目標に走った。美浜原発と同じように、原発施設には近づけない。PRセンターに入って、あれこれの自己宣伝を眺め、経年の訪問記録には、23年間で100万に達したと表示され、2012年で表示が止まっていた。そのまま止まっていることになればいいと率直に思った。

 震災の時に被災者を原発の施設で受け入れたときのことも写真に撮っていた。戻ってからNETを見てみたら、被災者が原発の施設に集まってきたので、受け入れたとなっているので、最初からそういう時のために備えていたわけではないということだったらしい。

 女川原発は牡鹿半島の先端部分を占めていて、近づくのには曲がりくねった道をかなり走ることになった。半島の道路はあちこちで壁面工事をしていて、今もって復興の造成工事をしているところだった。

 小さな港(荻浜港)は真新しいコンクリートが敷かれて、古い漁具が置かれている。それが通常見る港の風袋とは違った落ち着かない感じだった。

 石巻市魚町付近で、真新しい防潮堤が見えたので車をそちらに向けて曲がった。ここもちょうど港の造成工事をしたばかりの港と、石巻漁業市場、漁業関係らしい倉庫があり、そこまで防潮堤の端が伸びていた。

 その防潮堤の湾曲したスタイルは、おそらく海との親和性を考えたものではないかとみえた。

 復興予算の目玉のような使い道として、防潮堤の建設がすすめられ、住民の意向の多くは無視をされるか、あるいは時間切れの相談事として扱われて、海と共生してきた生活を分断することを、問題とする意見が現地以外からもでている。

 「防潮堤が高くて海が見えない」という話もうなずける。万一のときのも津波が見えないというのはどうなのだろうか。いつまた津波が来るかもわからないから、防潮堤を張り巡らさなければという理由は反論しにくいが、いつ来るかもわからなくて過ごしてきた日々の積み重ねは、どれだけの「価値」と重みを生み出してきたかも考える必要があるのではないのだろうか。いくら備えようが自然の力には及ばないよとの声も的を射ている。