2017年1月29日日曜日

キューバにいってみて写真を撮る  その1

 どこに写真を撮りに行くときもそうなのだが、なにが写真に飛び込んでくるのかを、期待してドキドキしながら巡って歩く。今キューバに行ってみて“いいもの”に遭遇できればいいなと、とりあえずは踏んでのことだった。

 なにせ、社会主義を目指す国としてまともで、旺盛に政治が進められているところは、あまりないと言っていいのだろうから、キューバ共和国の人たちがどんな表情をもっているのかはとても興味深い。社会主義たるものがいかなるタチのものかは、簡単に図面を描けることではないにしても、資本主義がうまくゆかなくなって新自由主義も危うい将来を抱えていることからして、今の姿見に映し出して切り口にする価値があるのではないかと、そう思った。

 だが海外旅行はいろいろなハードルがあって、噛みごたえのある活動なので、緊張感とストレスに立ち向う覚悟をしながらの旅となった。撮った写真が“いいものであるための心構えは、これまでの修行のうえのことで、ジタバタするわけにはいかないが、撮りつつ考えつつ感じつつと、足らない脳の働きをフル回転させることになった。

 それで、キューバ共和国のどれだけの姿が見られるのかということだが、そこまで肉薄ができたかどうかはいささか自信はない。

 写真は最初のホテル目で撮ったトラック。ホテルの植え込み用の草木を運んできた。「……という車だよ」とスペイン語(だろう)で教えてもらったのだが、車名は覚えていない。このど迫力に驚いたが、キューバらしいものをのっけから出会ってうれしくなり、これだけで何枚も撮ってしまった。




2017年1月23日月曜日

川は危険なことがあるが、その機能を排除するということでいいか



 兵庫県の都賀川は、「親水」の役割を認識して河川造成が行われてきた。阪神大水害や阪神・淡路大震災などの大規模な災害を経験している神戸市が、防災、治水対策を推進し、都賀川は1996年から2005年にかけて河川改修が行われた。

 河川改修では治水対策だけでなく、市民の要請を受けて環境への配慮を踏まえた親水施設をも整備した。また阪神・淡路大震災の教訓により非常時に生活用水として川を利用できるように緊急河川水利用設備も求められていたため、階段、スロープ、遊歩道などの親水設備、自然石や環境ブロックを利用した水路整備が行われていた。

 ところが、20087月に突発的な集中豪雨が雨水幹線の排水域に一気に降ったため、水難事故(とががわすいなんじこ)が発生した。水位が急激上がり、水遊びなどで都賀川や河川敷にいた16人が流され、5人が死亡する事故になった。川は親水施設として親しまれてきたが、この事故はそれまで想定されていなかった問題の対応を迫られることになった。

 国土交通省、神戸市は事故の被害を拡大させた最大の原因は、「気象警報を河川にいる人たちに向けて知らせる設備がなかったこと」と判断し、都賀川に大雨洪水警報および同注意報発表時に点灯する回転灯を設置した。このほか川の危険を警告する看板を複数設置、小学校での啓発向けにDVD「楽しい川、あぶない川」を配布してする対策をとった。

 京都大学と神戸大学の研究チームが事故後に行った付近の住民の意識調査を踏まえた上で、都賀川沿いは子供たちが親しめる環境である一方で、川自体が氾濫する危険性も秘めていることを認識する必要があるとして注意を喚起しているとのこと。

 昨今の集中豪雨による災害は、すさまじい被害を起こしているが、しかし川を排水溝にしてしまうという選択は、都賀川の経緯からして、簡単にもうなずくことのできないものだ。(ウィキペディア「都賀川」参照)

2017年1月20日金曜日

善福寺川を眺めて総括的に思った

 善福寺川、神田川に限らないがこの川沿いには桜の木が目立つ。老木が目立ってきており、川の流れに乗り出して毎年春を楽しませている。ところによっては側道を占領してまで、生き延びている。いつの日かそれが耐えられなくなったら、切られてしまう運命にあるのだろうか。がんばれ桜!

 杉並区から中野区にかけての間でも、河岸の仕様が異なっていると今回思った。あえて言えば、都心に近づくにしたがって川としての性格を変えてしまって、単に水を流す場所として切り捨てられているような感じがした。護岸の造成の時期が異なっているし、造成工事区域の設計思想に一貫性をもたない発想が存在したのだと考えられる。少なくとも善福寺川は一級河川なのだから、管理責任は国にあるといえる。国の責任を災害対策の造成工事だけにしておいていいものかは問い直されていいのではないか。

 都市部においては、川のあり方が再認識されてきているところはまだ数えるほどだ。オリンピックの公共工事は、あれこれと数千、数百億円が「動き」回る。オリンピックなればこその成果が、生活のどこに充実感をもたらしてくれるのだろうか?あえていうなら、川と人との親和性を重んじた川の作りというのがあるのだし、公共工事がそういう方面に投入されれば、「幸せ感」は増すはずだろうと、対立させて言いたくなってくる。

 川との生活と遊びは、人間の暮らしに大いに影響してきた。神田川の「カミソリ護岸」で落下してけがをした人は、聞いただけで二人いる。流れ沿いに歩道があったなら、落ちて大けがをすることはないだろう。その発想での造り方を、今回周ったところで一部見ることができた。川と人の暮らしは対立関係ではないだろう。







2017年1月17日火曜日

下流部へ戻り神田川合流点の下、中野新橋から下流を見る

 中野新橋周辺は、災害対策で護岸のかさ上げ工事が終わって間もない。その結果コの字型の川、すなわち水路としての型が強調されたままかさ上げされた。安全を手に入れたと評価されることになったわけである。

 集中豪雨のすさまじさは否定すべくもないが、しかしそれで「川」はどうなったのか?というモヤモヤが残る。山手通りまでの間、川といえるのかどうかの水路はずいぶんと無粋だ。工事完了の時はつい最近なのに、もう「汚れ」が目につく。いや、汚れは「ドブ」との違いがない機能を前提としているからなのではないか。そんなイヤミを言いたくなる。

 都会には生活では使うこともない、邪魔者の雨水が、正直にその姿を見せている。ここでの流れでは、水草が黒々として、おそらくは半死状態にあると見える。この場にもカモのグループがいるのだが、浅い川底と形状はエサがいるのかと思えるし、型が小さいカモのグループは、子供たちの就餌訓練場かとも思えた。

遊歩道は綺麗にできている

工事区間の境目は統一性がない。こんな工事でいいのか?と思う


新宿方面に向けて幾何学的?

この汚れはなんなのだろう

水底の草は黒っぽくて上流部とは雲泥の差

2017年1月14日土曜日

荻窪へ出て、善福寺川を下ってみた

~善福寺川、神田川のカモたちが悠々自適ライフ~
 環七通りから西およそ5キロくらいだろうか。荻窪駅からこんどは東南方向に下ってみた。東南方向といっても、川はかなりの蛇行をして下っているので、相対的に東南方向になっている。環八通りにかかる橋から川沿いの道に入り込んだ。

 ここには川一面に水草が繁茂している。水の透明度が高くて、水草が流れに揺らめいているのが、「東京」にくくられるイメージと真逆のシーンみたいに思えた。太陽に照らされて輝いてところに、カモがたくさん就餌行動をしている。観察していると、グループで行動しているようだが、1~3羽でも動いている。

 就餌のときは、水草の上にある「何か」をついばむ、泳ぎながら足が川底に届くところでは、足をばたつかせて川底をかく乱して浮いてきた「何か」を頭から水に潜って食べる、もっと深いところでは90度転回して…つまり真っ逆さまになって「何か」をあさっているのが見えた。こんなことは知っている人もいるのだろうが、肝心なことはこの場でカモの就餌が可能になっている条件だ。

 エサがないところには当然集まらない。就餌ができるところを学習している。エサが繁殖できる条件がその場の川の構成にあるということだろう。水草が繁茂できるきれいな水、根を張れる川底、太陽光、それから水草の養分となるもの。カモの糞も水草の養分になっているのかもしれない。

 善福寺公園まで来ると、川としての機能に着目した岸の造成が考えられているように見える。現在は川には近づけないが、川近くまで人が寄って遊んだと思しき仕様ができている。水流を弱めるための穴を構成し、水生生物をも考慮した思われるパーツが作られている。スズガモだろうか、水流の変化の生じた場所で、水に潜ってエサを追っている姿が見える。













スズガモらしき鳥、水中でエサを追っている

2017年1月11日水曜日

善福寺川の様相が変わってくる環七通りの上流側

 善福寺川を西に向かって、つまり環七を越して遡ると、川の様相が変わる。環七通りの近くは武蔵野に豪雨が見舞われた時の水の逃げ場「取水口」がある。環七の地下にもある地下雨水貯留施設への導入口だ。関連はないかもしれないが、そこは川としての見方は評価しようがない。

 さらにその上流では、川沿いの様相も中野区域とは違って、都会的な仕様から「野の仕様」に変わったような印象を受ける。長い時間をゆっくりかけて変容したのだろう、川が緩く曲がって流れる内側には、土の堆積をしたところが見えてくる。下流部では許されない土砂の蓄積が、流れの緩さに助けられてできたものだろう。

 カモが羽を休める場になっているのが印象的だ。川沿いの道も中野区域より幅が広めであり、川との親和性が感じられる。川底は両側に石畳のような造りがされていて、川のせせらぎと評価機能を意図されているようだ。

 





2017年1月8日日曜日

善福寺川、神田川いずれも高い護岸が人との親和性を遮断

 神田川が「親水の川」にならないかと、夢のまた夢を見て川沿いを歩いてきた。神田川は我が家より1キロあるかないかくらいの上流で、善福寺川と合流する。合流点では善福寺川の方の水量が多い。一方の神田川の水源である井の頭公園では水をくみ上げて水流量を確保してとのことなのに、善福寺川の方は善福寺公園あたりに湧水が2か所あるということも、本流は善福寺川だろうと勝手に思い込める根拠にできるかもしれない。

 「武蔵野の」との文化を蓄えているはずの川の流れが、いまは途方もない高層ビル群に近づくにつれ、様相はその幾何学文様に合わせたように、箱型のごくごくつまらない放水口として放任されてしまっている。

 中野区域では環七のほんの少し手前に、コンクリートを四角く切ってたまり場を造った場所がある。そこには肥えた鯉の群れが泳ぎ回っているが、そこから抜け出して移動する川の環境はない。不幸にして流されれば浅い流れに転がされて、どこまでも落ちていくことになるだろう。時たまのどぎつい豪雨にもめげずに、その場にいついているのは、そういった泳力をもっているからだろうか。

 その鯉のたまり場以外は、新宿方面への川の構造が、他の生物を意識して作られていないように見受けられる。

川は少しのことは許容する?

神田川と善福寺川の合流点、広い流れが善福寺川 

神田川沿いに飾ったレプリカ
 しかし、何を思わせようとしているのかもう一つ不明
鯉が悠然と泳いでいる この造りはこの場所にしかない


2017年1月3日火曜日

抑圧政治打破、ヨハンシュトラウスが応援しているかな。

 ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートをチラ見した。元旦の番組で、見始めたのがコンサートの終わりころになってしまった。テレビ番組を見るというクセがないものだから、いつもこんな具合に途中からみるということは多い。が、これは見るべきだったと少々悔やまれる。指揮者のグスターボ・ドゥダメル氏は気鋭の指揮者(35歳)で、にこやかな表情で素晴らしい振りをしていた。

 ニューイヤーコンサートは小澤征爾氏が指揮したとき(2008年)のCDをもっていて、時たま演奏を聴いている。その定番の行進曲である「ラデツキー行進曲」は明るくてテンポが快くて好きだった。その行進曲をアンコールに応えて演奏したところをうまい具合に見られた。シンフォニーは自ら演奏会にということはめったにない。ただじっと味わい聴くというような生活に恵まれていないだけで、けっしてきらいなわけではない。だから今回は幸運だったのかも。この行進曲は手拍子で演奏に参加できるという特典があるから、余計親しみやすいのだろう。聴きながら自分も指揮を真似したくなるような気分に囚われて、気持ちも軽やかになる。

 シュトラウスはウィーンの宮廷舞踏会音楽監督を務めていたが、革命運動に与してオーストラリア帝国のクレメンス・フォン・メッテルニヒ宰相の抑圧政治を打破しようとし、『学生軍団行進曲』(作品223)や『自由行進曲』(作品226)、『ドイツ統一行進曲』(作品227)を作曲した。しかし、フランスから発した「ドイツ民族からの独立」を目指して激しい闘争が繰り広げられていた「革命運動」には加わらなかった。

 18487月、ヨーゼフ・ラデツキー将軍の率いるオーストリア陸軍がこれの北イタリアの民族統一運動の鎮圧に成功した。この勝利を記念するために、「イタリアで戦った勇敢なる将兵の賞賛と傷病兵への募金を兼ね、寓意的、象徴的表現と格別な啓蒙を意図した大勝利感謝祭」が開かれることになった。この時作曲したのがラデツキー行進曲だった。

 この行進曲のおかげで政府軍の士気は大いに高揚し、のちに政府側の人々から、=ウィーンを革命から救ったのは、ヨハン・シュトラウスである=と称賛された。しかしこの『ラデツキー行進曲』が初演後たちまちシュトラウスの既存のすべての作品の影を、薄くしてしまったとも言われているとか。

1987年、カラヤン氏が指揮している。現在の演奏とは迫力が違うが、音響技術の発展による違いだろうか。



(作曲の経緯はウィキペディアから)

2017年1月1日日曜日

息子の新年奉納能を見に、鳩の森神社へ行く

 鳩の森神社の舞台で毎年やっている、新年奉納能に行ってみようという気になった。大体、世の中見渡してもちっともそんなにめでたくはないし、特にハチャメチャの喧騒テレビには付き合いたくない。このときばかりの余裕もあることだから、ましな番組をすればいいものをとずっと思っている。初詣にもこれまでまずいったことはなかった。無神論者というほどはっきりとした信念があるわけではないが、昨年義父母か亡くなってしまって、家族の絆の重みが増したせいだろうか、ふとそんな気になった。

 前々から息子の能の写真を撮りたいという願望があったから、この際新年の世間の動きを味わってみようということにした。11時半近くに家を出た。駅で運悪く目の前で電車が出発してしまって、開始時間に間に合うかと算段していたが、次の電車でもうまい具合に千駄ヶ谷にある鳩の森神社に、12時から始まるほんの2.3分前に着いた。

 神社は大きくないがすでに神社へ初詣の参拝客が長い列を作っている。能を見ている人はそう多くはないが、参拝客が並んでいる場所から見ることができるので、詣でるまで間にスマホをもちながら鑑賞している人もいる。総じて結構な観客数という感じだった。

 能が始まってシテ役が入れ替わって演じ、最後に息子の番になった。写真は息子の舞のときには先頭で、カブリツキで撮らせてもらった。遅れてはならないと会場まで急いだおかげで、温まった体のまま全体で30分ほどの間、寒さを感じないで過ごすことができた。帰りに新宿西口の様子を少しだけ撮った。新年の「騒ぎ」の後なのだろうか、きらきら光る装飾を肩にかけた外人と、通路で寝入っている路上生活者の人たちの様子が印象に残った。









2016年12月31日土曜日

カレンダーづくりは金がかかるけど

 デジタル写真研究科で、毎年撮りためた写真から適当なものを抽出してカレンダーを作っている。今年3回目の作成となったが、今回は昨年撮った写真のうちからひっぱりだして、多めに絞り込んでから最終的に表紙を含め13枚の写真を選定した。うまい具合に月一くらいでは、近所でのものをふくめて撮りためたものがあるので、選択対象には困らない。
 
 抽出した100枚ほどのうちから25枚を選択した後、絞り込みをして13枚をカレンダー写真に決めた。1回目の注文で出来てきたカレンダーに、具合を確かめたうえで、写真への「タイトル」と初回の写真を変更したものを修正して発注した。

 ところがタイトルは直っているものの、写真の方の交換がない。発注先へ事情をメールで発信したところ、システム上の不備は認められないが、不具合がゼロではないということで、回復に応じてもらえた。2回目の出来上がりでは、タイトルについて初回のものに「・」を使ってすべての写真を修正したものが反映しているのに、写真だけが変更されていないのはどうしてなのか理由がわからない。

 注文の段階で重複して変更などをすると、対応ができないようなことがあるのだろうか?今回はこれまでの経験の結果、少々余裕があったようだったが、終盤で躓いてしまった。

 カレンダーづくりは、「良い写真」選択と「写真現像(編集)作業」によって、撮ってきた写真のひとつの纏めになるので、ひと区切りとなる。カレンダーの進呈先から、写真に対する世辞をいただくのもうれしいこと。もちろん金もかかるが。カレンダーのうちから6枚を選択。

立山連邦

神田川

上田市

鹿教湯温泉


ロシア

山梨県早川