2019年7月21日日曜日

花の散り際はやっぱり寂しいものだ

 花の散り際とはそう目立たないものだという気がする。目立たないのは人の身勝手であって、見ていないという方が正解か。咲いた花も次のなにかの植物の時節のために席を譲るのだろう。うまい具合に入れ違って生命をつないでいく。

 手にかけられた花の盛りは、沢山の人に見せ場を作って謳歌のときを過ごす。そのときは自然界の中の一つとしての存在は否定されないものの、盛りを過ぎてしまえば終了のレッテルを張られて見向きもされなくなる。また来年のためのなにがしかの人手を与えられて、また翌年の準備行動につらつらと移っていく。

 人手によっていくのも一面花の命の営みとしてはわかるが、しょせん人工「化粧」を施されたものと思うと何か気の毒でもあり、もっと言えば人の勝手な介入ととれなくもない。
















2019年7月17日水曜日

紫陽花が有名な寺だという高林寺、盛りが未だでも

 アジサイで有名なところとの案内で、二本松市光林寺に立ち寄る。まだ早いようだとガイドさんが、がっかりしないように重ねて説明する。だいたいなんでも花の咲くのは時期を合わせて狙っていくのは難しい。訪れた時の状態を楽しむ以外ない。咲きかかった花も悪くはないし、アジサイがだめならほかのものに目を転じてみるのも、楽しみ方だろう。そのときはなかなか見えかったものまで、見えてくるという余禄を手に入れることもある。













2019年7月12日金曜日

サクランボ狩り、たくさんある種類ほど味分からず

 東根市のサクランボ園で「食べ放題」とはいえ、朝食のバイキングをしっかり味わった後の間もない時で、食欲はあんまりない。策略ではないとは思うが、牛舎から引っ張りだされた牛のごとく、指定の場所につれていかれて、採れたてのサクランボを口に頬ばった。

 従妹が東根のサクランボ農園で手伝いをしていたが、そのころ教えてもらった「サクランボの種類はたくさんあるんだよ」の言葉を思い出した。食べたサクランボはたぶん佐藤錦だろう。













2019年7月8日月曜日

久しぶりに曇天の空に陽がさした


 参議院選挙告示になって、近所にまた不思議な静寂が始まる。この広い東京でも、駅の演説会にでも出かけなければ、政党の選挙政策やら論戦がほぼわからない。わずかにテレビで「討論会」なるものを短い時間でやる以外は、どこかの国でやってるのかなというくらいの「印象」しかない。

 「印象操作」と言う言葉の好きな人がいるが、思えば知らしめないでいる前提での逃げともとれる。おおいにやったらいいのに、宣伝カーの台数、駅での宣伝にも、戸別訪問にも規制がかけられて、結局強いつながりや利益誘導で票を囲い込む。職場ではおしなべて政治活動、選挙活動へは「禁」の状態が、組織を使って保たれる。

 判断できない状態に置かれて、さあ選挙へ行けと言われても投票先は「指示された人」に落とし込まれる。日本の民主主義とはこんな選挙制度に縛られている。18歳になった高校生も政治活動参加へは「届け出」がいるとか。暗闇選挙と言ってもおかしくないかもしれない。だからと言ってあきらめるわけにもいかない。

外交を軽んじて他国と武力でやりあえる憲法でいいのか?
低賃金の非正規者が半数以上もいる日本でいいのか?
男女平等の実現に向かっているのか?
増え続ける生活保護者の生活向上はどうするのか?
結婚し子供が育てられる様々な環境は?
原発再稼働は?
払った税を惜しみなく軍備に投入するのか?
社会保障と税の一体改革でいいか?
消費税率値上げで消費、家計はどうなる?
年金を払えない人をどうするのか?
もらう年金が生活費に及ばない状態をどうするのか?
税金の再配分はどうするのか?
まだまだある。

一票の重みはこんなにある。

山形県東根








2019年7月4日木曜日

温暖化対策、「逃げろ」の対策は見えるけど

 集中豪雨がまた猛威をふるっている。温暖化対策は焦眉の急なのに、先日のG20サミットでは、踏み込んだ内容を決められなかった。欧州連合(EU)のユンケル欧州委員長が開幕に先立って記者会見し、首脳宣言に盛り込むべき地球温暖化対策について「2018年のブエノスアイレスの首脳会議での合意を弱めることは受け入れられない」と述べたと報道されている。

 「G20閣僚会合 温暖化対策、議論進まず プラごみ対策は前進」16日閉幕した主要20カ国・地域(G20)エネルギー・環境関係閣僚会合は、プラスチックごみの海洋流出防止を目指す初の国際的な枠組みをつくり、問題解決に一歩踏み出した。一方で地球温暖化対策は国際的な枠組み「パリ協定」を巡る立場の違いが表面化し、具体的な進展が見られなかった。

 「アメリカへの配慮」が優先とする、その足元ではここ連日の驚異的な豪雨の状況が広がっている。自治体が一定の対策をしていることも報道では確認できるが、「命を守るための行動を」と脅かしつけるのでは十分な対策には程遠い。政治の責任とは、結局これも自己責任なのかと言いたくなる。

榛名湖雨上がり


 高崎駅前は晴天

霧の合間の蔵王お釜



 



2019年7月2日火曜日

太陽が照らす近所の変遷


 近所を歩いて回るのと意外に新しい発見があったりする。大通りは人と車ばかりが目に入ってきて、あまりに慣れすぎて新鮮さは感じない。写真を撮れるものはないわけじゃないが、人を矢鱈に撮るわけにはいかないから気を遣う。なにか目に飛び込んできてああこれは面白いかなというものがあればいい。

 ずっと住んでいても、変わっていくものがある。特に建造物の変化はすごくて、ここにどのくらいの金が流れ込んでいるのだろうかと、貧乏人が余計な心配までする。でも「景気」なんだろうし経済活動の一面なんだと思っても、懐具合には何の足しにもならないと頭の反対側から声が出る。

 「昔は」と、50年くらい前を想像すると料亭がある華やかな街だったらしい。黒塗りの車が止まって、ナントカという料亭はどこかを尋ねられたことがある。今はその頃の面影がほんの少しだけ残っているだけだ。付近には新しい公園やら高級マンションやら、邸宅が壊された平地やらが、新しさを「誇示」するように都庁舎を遠望している。

 ついでに言えば、住宅地のど真ん中に9階建てのワンルームマンションが工事中で、近隣の「建設反対」のポスターで包囲されている。新しいものの魅力は、昔のものとの入れ替わりで手に入れることになるが、ある意味「破壊」との引き換えにもなっている。