虚鯊は「ウロハゼ」。関西で好んで食べられている。すしネタでもいけるとか。「あーそーべー」は山形の方言で、一緒に遊ぼうとの意味。ウロハゼは関東の海でも増えてきているもよう。温暖化の影響かもしれない。夏のハゼ釣りのとき、マハゼに混じってつれるが、「つりの競技会」となると、邪魔者にされることがある。
2018年12月7日金曜日
2018年12月6日木曜日
奈良で気になって撮っただけの写真2
生き物の様々な仕草は、その時の一面だけではない。だから、ただの一時を取り上げて語っただけではおこがましい。人が造ったものでも、創造の心は存在するものだろう。それを瞬間で切り取ることができるのか。「駆け出し」にはちょっとむずかしい相談だ。
気を引くものがあれば、眺めるのも写真に切りとって収めるのも、一瞬のわずかなふれあいの場にはなる。「気」がうまい具合に発動して、最初の一撃になったとき、非常に失礼ながらそれをもって、理解したふうに装うことになる。
かくして生き物のしぐさも人の造ったものも、その意図のほんの一部を、分け与えてもらえたことになる。不思議さは気を引く、魅力的なものと同等でいえるだろう。これはなんだ、なぜこれが、と想像豊かに脳細胞を動かすとき、心臓がときめく思いに浸れる。
気を引くものがあれば、眺めるのも写真に切りとって収めるのも、一瞬のわずかなふれあいの場にはなる。「気」がうまい具合に発動して、最初の一撃になったとき、非常に失礼ながらそれをもって、理解したふうに装うことになる。
かくして生き物のしぐさも人の造ったものも、その意図のほんの一部を、分け与えてもらえたことになる。不思議さは気を引く、魅力的なものと同等でいえるだろう。これはなんだ、なぜこれが、と想像豊かに脳細胞を動かすとき、心臓がときめく思いに浸れる。
2018年12月5日水曜日
2018年12月4日火曜日
赤目四八滝で失敗の憂き目
奈良四日目、最終日の朝、前日の下見をしたときの期待を胸に、三脚をもって出かけた。お土産屋などは無論開いていない。まだうす暗い6時少し過ぎに遊歩道を歩き始め、一番目の滝に着く。
一番目といえども、上り坂を結構歩いてたどり着いた。担いでいった三脚を下ろして、滝に向かってポジションを決めて、シャッターを押した…。念を入れて何枚も撮影した。だが、しかし、あとで見るとほとんどがブレていた。全く初歩的なミスだった。スマホで撮った滝の写真がかろうじて、滝がまともに撮れた写真になっただけ。
時間の制約もあり、そこから上には登らずに終えた。名張から奈良へ向かう途中の柿の木が、たわわに実を着けて見事な姿だった。「柿の木はないか、柿の木」と、奈良の風物詩の一つを追いかけていただけに、幸運な出会いだった。
一番目といえども、上り坂を結構歩いてたどり着いた。担いでいった三脚を下ろして、滝に向かってポジションを決めて、シャッターを押した…。念を入れて何枚も撮影した。だが、しかし、あとで見るとほとんどがブレていた。全く初歩的なミスだった。スマホで撮った滝の写真がかろうじて、滝がまともに撮れた写真になっただけ。
時間の制約もあり、そこから上には登らずに終えた。名張から奈良へ向かう途中の柿の木が、たわわに実を着けて見事な姿だった。「柿の木はないか、柿の木」と、奈良の風物詩の一つを追いかけていただけに、幸運な出会いだった。
2018年12月3日月曜日
2018年12月1日土曜日
奈良二日目、去り加減の紅葉を追いかける
奈良二日目、東大寺の奈良県庁側から接近。奈良公園事務所前にずうずうしく車を停車して、池をみると東大寺の屋根が見える。雨に煙っていて入江泰吉の世界のようだと、思いを込めて撮る。あとで写真を見るとたいしたことはない(これは腕のせい)。
イチョウがすごかった。たまたま家に帰ってきた人が、庭に招き入れてくれて鹿に面会することができた。近くの吉城園は65歳以上無料で、写真がたくさん撮れた。それに比べて隣にある依水園は、新しくてきれいではあるが、趣が足りなくて。
2018年11月30日金曜日
奈良の撮影旅、いい写真求めて…だけど。
何十億もの脳細胞があって、日々活躍して身体を動かす指令をしてくれ、一方で死滅している細胞もあるわけだから、できることと言ったら、やっぱり体を動かすことしかない。そうした刺激で新しい細胞にも少々は生まれてくるだろう。しかし効率的な動かし方などはなかなかできないから、少ない年金を消化しつつ合理的な「遊び」にまい進するのが、一番というところだ。
活躍している細胞に稼働を呼びかけて、散歩がてらブログテーマを考えたものだった。歩くのは気分転換になるし、酸素の取入れで頭の細胞も活性化する気がする。最近は、パソコンの前に座って、前日書き残した日記を書き始めると、連動してブログのテーマになっていくこともある。
次のテーマを考えるのが、生きている証と言うと大げさかもしれないが、自分でストレスを持たないとぐうたら人間には刺激がなくなってしまう。
奈良に撮影に行った写真を整理している。例によって「思い入れ」のたっぷり入ったものを、取捨して「これはどうだ」の写真を掘り当てる作業だ。
初日は奈良教育大近くの入江泰吉写真美術館で写真を見て、香薬師堂とその近所を撮る。柿の木があると地元の人が教えてくれた。夕食はホテル近くの飲み屋を物色。北海道魚鮮水産のあとはラーメン三ちゃんで締める。
2018年11月28日水曜日
断捨離と対峙する老いとの闘い
「ぼーっとしている時間」も当然ある。横になって、録画したビデオを見ながら居眠りをよくするが、「録画の残り時間が5時間を切りました」などと余計なことを教えてくれるから、溜めまくった録画を見ないわけにもいかない。ところが、ビデオで撮ったものを見終わったから「消去」するという作業がすすまない。これ忘れたらもったいないという気にさせられる。
消すためには必要な情報をメモることにする。そうしておいてみたビデオを消すところまではいいが、そのあとメモを見て「なんだっけ?」ということになり、NETの検索にかけるというイタチごっことなる次第。
頭に残らないということは、よくあることと言う話になるが、自分の身につかない知識を、どこかに保存するということで、安心感を得ることになっているみたいなところがある。
パソコンにしまってあるファイルも同じようにある。役20年にわたって、新聞の記事を切り抜いたものや、旅先で手に入れたパンフレット、これまでの様々な記録などだ。つりの会の記録は「50周年記念行事」で役立った。とはいえ役だったものという意味では、そんなにないのも確かだ。これも確かに断捨離の対象でもある。
ただし、ちまたの「家からあふれ出て、近所迷惑なゴミ」とは違って、これはパソコンのファイルなのだから、とりあえずは他人様の迷惑の対象ではない。
消すためには必要な情報をメモることにする。そうしておいてみたビデオを消すところまではいいが、そのあとメモを見て「なんだっけ?」ということになり、NETの検索にかけるというイタチごっことなる次第。
頭に残らないということは、よくあることと言う話になるが、自分の身につかない知識を、どこかに保存するということで、安心感を得ることになっているみたいなところがある。
パソコンにしまってあるファイルも同じようにある。役20年にわたって、新聞の記事を切り抜いたものや、旅先で手に入れたパンフレット、これまでの様々な記録などだ。つりの会の記録は「50周年記念行事」で役立った。とはいえ役だったものという意味では、そんなにないのも確かだ。これも確かに断捨離の対象でもある。
ただし、ちまたの「家からあふれ出て、近所迷惑なゴミ」とは違って、これはパソコンのファイルなのだから、とりあえずは他人様の迷惑の対象ではない。
2018年11月25日日曜日
断捨離を追いかけるやつ
親父のかつての住まいに、片付け(断捨離)に行った。大方済ませていたものと思っていたが、主に物置に農作業の道具と釣り道具が、置きっぱなしで後回しにしてあった。
農作業用道具は、使えそうなものもあるのでいくつかは残すとして、釣り道具はほぼ不用としていいものだった。しかし使えそうなものがあるのがなんとももったいなくて、東京に送ることにした。
自分の釣り道具は、先日断捨離の対象にしたのに、また増やすというのは矛盾を抱える。子供のころは、欲しいものも買ってもらえずに、その恨みがこころに残っている。それが「もったいない」の思想をはぐくんでいるのだろうか。どこかで使えそうという「悪くない」気持ちを、それまでも断捨離にかけなくてはならないときになったのだろうか。
物置にそのほかのいらないものも結構あった。清掃工場が近くにあって、持ち込みができたので、10回にわたって軽自動車で運んだ。腰がまた痛くなるだろうかなと心配しながらだったが、力を入れて持ち上げるという「運動効果」が、かえって筋肉に刺激を与えたようで、その後の動作にしっかり感がでたのは幸いだった。
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