2020年8月21日金曜日

飲酒しない心配

 家にいることが多くて、アルコールが少し縁遠くなった。

 健康診断でちょっとばかり肝臓のの「数値」が悪くなっていたし、体力もたなくなってアルコールを控えれば頭の働きのもいい影響があると決め込んだ。

 暇つぶしに昨日まで飲んだ日を勘定してみたら82日だった。飲まない日は155日だった。昨年一年間では二日に一度は飲んでいたから「打率5割」で今年は「打率3.6割」。

 でも、これでコロナ禍のストレスにはどう影響するのかはわからない。ときには飲んだ方が、ストレス対策にはいいのじゃないかという気もする。でっぱった腹が気持ちへこんできたのは、ストレスには引き算効果ではある。

中野の「酒」


うれしい4段重ね

2020年8月13日木曜日

今年はハゼがよく釣れるらしい

  ハゼつりの情報があったら、メールで知らせてくれるアラート(おかげでどこやらの知事が「アラート」という言葉をつかってもよくわかる)で、良く釣れているとの情報がしょっちゅう届く。いわゆるAIというものの仕業なのだろうか、こういうことに使われるならいい。

 釣りの会に人がたくさんいた頃は、関東圏のあちこちに出かけて、そのつり場の情報が伝わってきたものだったが、今はその広い活動範囲に出かける人は少なくなったから、無理な注文になった。

 ハゼつりは「つりの道」では、釣りの最も基本的なやりかたで釣れるものだから、つりの愛好者になるのには、おおいにきっかけになる。今年のように魚の数が多くときは、その意味で初心者にもなじみやすいし、釣り場の安全度もわりあい高い。家族連れで楽しむことができるので、もってこいのレクリエーションになる。

 今年は雨が長かったせいで、釣り場に人が入らず、餌が豊富だったからだろうか、大きいものも混じって良く釣れているらしい。

 やっと梅雨明けになって、急に暑さが襲ってくると、夏場環境への慣れついでにハゼつりもいいなと夢想はするけれども、異様な暑さとコロナ禍での対策を心配しながら、ハゼつりをやるのも、ちょっと心配でもあり気持ちが揺れる。

 小供と一緒にハゼ釣り 1時間で25尾手中【東京・大井ふ頭中央海浜公園】

2020年8月3日月曜日

写真展が終わって

 今回の写真展は、特別な記憶に残るものだった。新型コロナの感染拡大が、「自粛」以後に増大している中でのことだったので、案内のハガキを出すのもはばかられる状況だった。開催を止めた方がいいのではないかと、相談はしたが開催日が近づいてくるなかでは、舵を切るまでにはならなかった。

 写真展は開催をしているところもあるし、良いのかどうかはべつにしても、日常の生活が「動き出し」OKという環境にあった。開催前日の727日に会場側での作品掲示があり、いつもどおり掲示のセッティングを確認した。ぐるりと見渡して全員の写真をみたとき、「ああ、写真はやっぱり飾らくちゃいけないよな」という声が思わず出た。ここまできただけでも成功だと、来訪者は昨年より減るだろうことを予想して話になった。

 8月2日に写真展日程が終わり、来観者は昨年の半分ほどだった。いつもの友人にも会うことができたし、「三密」を気にしながらの事後交流をしたグループもあったが、久しぶりに外に出てしゃべることになった歓びで、いまさらながら「生きている」実感を味わった。こうした時期に来訪してくれた方々には感謝の思いあるのみ。幸せなことだった。






2020年7月27日月曜日

コロナ禍の「楽観」はないのか

 新型コロナの感染拡大の報道を見て、身近な世間話で感染した話が耳に直接聞こえてくると、やり切れない思いがする。最近の報道には、政府の「言動」も含めなんの根拠をもって「楽観」しているのか理解不能なものもある。先の見通しが捉えられない安心を強引に持ち込むだけのことでは、無責任を通り越して投げ捨てに近いものを感じる。なににつけても足りない、足りても利益誘導にしか動かない政治であっても、信頼に足る少しの何かでもなくては、ここまですすんできた日本のシステムが崩壊していくとしか見えない。

 自己の努力でやれることは限られている。三密ができていればコロナ禍が終息するとは誰も思わない。医療崩壊への手立て、中小業者への支援、文化事業への援助、学業補助など「自助努力」でやれるはずはない。政治の出番に「閉じこもり」をしている場合ではない。将棋の藤井聡太君を見習って「しっかり考えて」やれよ!

 このごろ、新型コロナは恐ろしいものでないと、故意に楽観的な論を取り上げているサイトもあるし、テレビの報道でも自力で取材して構成しているものはごく少ない。Gotoキャンペーンで東京との差別ばかりを強調して、本筋をはずしてしまったりする報道もある。無理強いする方が、批判を受けて繕いごとをするのだから、それを追っかけても仕方がない。政治が持っている責任にしっかり焦点を当ててもらいたい。

 自粛下で静かな町になったら聞こえた鳥の声、公園の静かな遊び、いつもこれならと思う、空いている電車などなどを切りとってみると、一面なんと穏やかでゆったりした社会なのだろうと感じる。これが本来の街の環境でいいのではないかと。これまでの殺伐とした日常よりいいと思うのは、今の状況では不謹慎なことになってしまうだろう。どれだけの「日常」を奪われたのかを忘れたわけではもちろんない。

SNSの投稿でイギリスの話があった。

~イギリスは確かに大変ですが、ロックダウンは給与補償とセットだし、なんだか曖昧に外出や営業自粛している日本よりはhappyな感じで生活してる人は日本よりは多いです。

あと、感染者数がイギリスは大量にいて日本は少ないって思っている方も多いですけど、それね、日本の検査数はイギリスと2桁違うのね。少ない。日本も同じ規模で検査すればそれなりの数字になると思いますよ。多分10人調べれば1人は陽性っていう感じじゃないのかな?

日本で誰かと話すと「いったいこんな状態がいつまで続くのか」というフレーズが必ずと言っていいくらい聞かれるんですけど、こないだイギリスでロックダウンの段階的解除前に行われたアンケートで「ロックダウン前の暮らしに戻りたい」って回答したのたったの9%でした…イギリスの人たちの大半がなんでロックダウン前の暮らしに戻りたくないと答えたかって言うと、

今までの通勤や通学は考えてみれば忙しすぎたよねー、家でのんびりしたりジョギングや犬の散歩したり窓から生き物眺めたりっていう生活っていいもんだな、って気がついちゃった、みたいな~

 給与補填をやっているイギリス。これがあっての楽観かも。これまでの日常を超えた「夢」の方向へ行かないものかと、ぼんやりと思った。三密でなければ成り立たない過密さの都市と生活を切り替えることが、ウィルス対策にもなるのでは?



2020年7月20日月曜日

「gotoキャンペーン」は利益誘導?




 「gotoキャンペーン」は汚染拡大が収まってからとの閣議決定だった。これをひっくり返して「前倒し」でやるというのは、閣議決定違反だろう。東京を抜くなどとあとからとって付けて、つじつまを合わせようとし、キャンセル料はどうするのだと対応が迫られてまさに「トラブルキャンペーン」に陥ってしまった。これまでのモリトモ問題から始まる、前のめりの政治はもうお仕舞でいいと、思う人がグッと増えているようだ。

 決めたことをひっくり返したのは、「選挙対策」なんだと。なるほどつじつまが合ってくる。支持率の「35%」もの数字があれば、政権の維持はオーライなので、キャンペーンが多数に反対されようとも、「30%台」の評価があればよいということにもなるのだろうか。(20日の朝日新聞世論調査では、キャンペーン反対の声は74%とのこと)我々の税を使って利益誘導(得票)の経費にあてるなどは、桜を見る会での構図と重なる。旅に行く余裕などない人がどれだけるのか、わからないわけはない。よっぽど特異な議員集団だ。

 イギリスでは、15日から “付加価値税”の減税が始まり、20%だったものが5%に引き下げられた。レストランやパブなどの飲食店やホテル、動物園、映画館など幅広く、期間は半年間。こういう政治が「政治」といえるものだろう。

自粛解除後、間隙をぬっていった温泉




2020年7月14日火曜日

「避難の掛け声」だけの対策ではこれから先どうなることか

 命を守る行動を呼びかけ、数十年に一度の降雨だから避難してとしきりに気象庁が警告する一方、また大きな災害が続いて拡大している。亡くなる人も80人を超えるかの様相。「経験」もなく想像を絶する降雨量はすさまじい。毎日のニュースで知らされ、コロナ禍に加えてのダメージで大変な思いをしているだろうと思うと、心が痛むばかりだ。早く行動を起こせ、避難しろと、外からは「現実的」解決法が繰り返されるのを、何かむなしさを感じる。 

 スーパーコンピューターが導入され、予報の正確性が向上しても、災害を直接止めることは不可能。せいぜい「早くしろ」と掛け声をかけることが、その成果なのだろうか。昨年から天気の種類15分類が8分類になったとか。「快晴」「地吹雪」などが死語になるという。もって「効率化」と説明されている。横文字ばかりが余剰に使われて、日本語が死語となっていくのは、文化の衰退にもなっていく。この折本論を控えず、温暖化への対策も議論してくべきだとは思うが、なかなか立ちこまない。4年も5年も同様の被害にあっている現状に「ハザードマップ見て逃げろ」の対応だけじゃしょうがない。

 

「快晴」「地吹雪」がなくなる!?東 北5気象台、来年(2020年)2月から自動観測に仙台は目視継続  @20191217 11:15 河北新報ダイジェスト

仙台管区気象台は16日、仙台を除く東北5カ 所の気象台で目視による気象観測から気象レーダーなどによる自動観測に切り替えると発表した。運用は来年(2020年)23日から。観測技術の向上に伴い可能になったものの、機械で判別できない「快晴」「地吹雪」などが観測できなくなる。

対象は青森、盛岡、秋田、山形、福島の各地方 気象台。青森、盛岡、秋田は17回、山形、福島は同4回、職員が決まった時間に目視で観測している。天気は「晴れ」や「曇り」など15に分類されているが、今後は8種類に減る。

 自動観測は1時間ごとと頻度が大幅に増え、 観測を効率化し、データの客観性や均質性が高まる効果が期待できる。一方、天気の観測が減るほか、雲の種類や量、「黄砂」や「虹」といった現象も記録されない。見通しの利く距離(視程)の観測も自動化される。

 仙台管区気象台は目視観測を続け、比較して自動観測の精度向上に生かす。各地方気象台は、警報の発令などのため目視で監視する体制は維持し、「防災への支障はない」としている。 

 自動化は今年(2019年)2月、関東甲信地方8カ所で先行して実施。来年(2020年)2月、東北地方を含めた39所で始まる。~



2020年7月11日土曜日

「結果出せ」のお題を頂戴して

 新型コロナの感染拡大が、想像通りに広がってきた。PCR検査の数は増えていると都のホームページに載って、出どころ不明の感染者が増えていると、「夜の街の元凶」をしかたなく補足している。「夜の街」と称して感染拡大が一部であることを強調したいのかどうかわからないが、シロウトが考えても広がりはどこにでもあるのだろうという予測はつく。

 社会に持続して生きていこうとするものに「休業はやりたくないでしょ!」という侮蔑を投げかけて、「経済」と両立といいつつ補償を避けて、優先させる狙いが意図される。広がっていることを認めざるを得なくなっていながら、「医療崩壊」を起こさぬようにと拡声を続けて、看護師さんのボーナスなしという現実にも向かえないのはどういうことか。400人もの看護師さんが退職を希望しているということは、医療崩壊を起こしているということでないのか。これまでの政治がこんなにも、願いに沿ったものでないことが、いよいよ露になってきた。

 日本の死亡者数、感染者数が少ない特殊性にいくらかの期待はあっても、そこに望みを託すことは危険だろう。為政者の責任が皆の「自己責任」にすりかえられ、責任を放棄することは勘弁できない。タガを緩めたうえに「go toトラベルキャンペーン」で経済を活性化させるなど、いま必要なことなのだろうか?急ぐのは少なくとも医療崩壊にさせないための先行投資ではないのか?「あとは野となれ山となれ」では許されません。「結果だせ!」のセリフ使わせてもらいます。

もう、三か月たっている



2020年7月5日日曜日

カルメンと言えば「バラ」、バラのころは6月中の頃

 良い育ちだったわけでもなく、金持ちの暮らしだったわけでもないが、いつだったか不鮮明な子供のころ、歌劇を見ることになった。親に連れられて行ったのだと思うが、多分その頃は「歌劇」なるものは日本ではまだ珍しかったころだと思う。演劇でさえ見たこともなかったし、歌いながらしゃべるなどということが、なんとも奇妙な感覚だったのだろう。バラを加えて歌い踊るという鮮烈な場面を、びっくりしたまま記憶に残している。

 だからといって歌劇=オペラが好きで通ったということでもなくて、その後も何回かは舞台を見、テレビも交えて眺めただけのことだった。合唱団の先生がときおりやる演奏会では、カルメンの曲が織り込んであり、いつもそんなことを思い出しながら楽しませていただいている。

 しばらく前に成り行きで、合唱団の「オペレッタ」で演じることになった。多数のなかの一人でやったもので、にぎやかにやり結構楽しいものだった。合唱団でさえも今ごろ(10年前)になっての奥手入学で、もっと早くからやっていれば、様々な楽しい体験ができたのかもしれないと思う。

(写真は昨年の6月22日)







 カルメンが加えたバラは、原作では野アカシアなんだそう。薔薇のようにすぐ萎れることはないし、「枯れてなお芳香をはなつ」強さがあるとか。



2020年6月30日火曜日

過度な動きは年寄りの冷や水

 5月の「加重山歩き」の受難のせいなのだろうか、それとも急な巣ごもりストレッチがきっかけになったのか。両方に原因でありそうな腰の痛みだった。6月の始めから、寝返りが大変なほど腰が痛んで、いよいよ医者に行かなくてはならないかという感じがしていた。この年になったのだから「ころ合い」かともいえるし、老化の症状がでてくるのも仕方がないことだとは思う。もうすこし痛みが引かなければ、医者に行こうかと考えていたところ、2週間ほどもたってから、不思議なことに少しずつ痛みが軽くなり楽になってきた。いずれにしても動きを控えていたのがよくて治ったものだろう。回復するだけまだ若さが残っていたと思うと、ちょっとうれしいできごとだった。

 腰をかばい乍ら寝転がって、プミアムカフェ(NHK)「世界レッキング紀行」再放送(20年前の放送)で、~オーストリアアルプス~幻の花エーデルワイスを探して~ (斉藤由貴)を見た。「斉藤由貴」は山登りなど経験したことがなかったから、エーデルワイスを見つけるまでに大変な苦労をしたという内容だった。登山に興味がむいていなかったところは、重なるところがあったが、若いときに山登りの楽しさを経験できていたら、山に対する親しみも膨らんだろうかと、今さらしようもないことを考えた。

            エーデルワイス



 ~ハイビジョンスペシャル ヨーロッパ アルプス トレッキング紀行 幻の花エーデルワイスを探して~オーストリア アルプス~(初回放送:2000年)一口にアルプスと言っても、オーストリア、ドイツ、フランス、スイスなど、それぞれの国で違った表情がある。オーストリアのチロル地方を女優の斉藤由貴が訪れ、オーストリアの国花であり、幻の花とも呼ばれる可憐な白い花、エーデルワイスを探しながらアルプスの道をたどる。~NHK


2020年6月28日日曜日

腰の痛みがやっと和らいできた

 渓流釣りはもうやらなくなったけれど、誘われるとついその気になって出かける。「断捨離」で釣り道具もだいぶ始末した(つもり)のに、渓流つりにかかるものは残してあるから、行くことにもなるわけだ。大した距離を歩くわけではなかったが、日ごろのグータラウォーキング程度では、体力が落ちていく分を賄えないことはわかってもいた。案の定足腰膝が悲鳴を上げて、これはもう無理だなと反省を迫られることになった。

 それなのにまだ回復半ばでタケノコ狩りにと声がかかった。歩けないよと言いつつ、「自粛生活」に押し込められていることにストレス、というより癪に障る感があって、国がロクに対応しないで自粛をしろと、自己責任ばかりを強調することへのいらだたしさもあり、3人目のメンバーになることにした。竹藪に入ってタケノコを採ったのはもう20年以上も前だったろうか。それから2回目の「至難」だった。同行の二人は十分な経験があって、よくもそれだけ…というほどの収穫だった。それも太くて立派なものを、袋一杯にそろえてきて驚くばかりだった。足腰膝の病弱者としては、藪の中に入っても頑張りが利かなくて、入ってはすぐ道に戻り、入り易そうな場所でまた入るという半身のスタイルなのだから、採れないのは当然だ。

 早めに上がって待ち合わせの場所で写真を「とる」のが収穫の一部にはなった。そのヒメタケノコは味も香りも良くて、後日取り寄せたものよりも上だった。










2020年6月23日火曜日

ヤマヒルに血を吸われた…

 全くの無防備だった。ヤマヒルに喰いつかれるなんて考えたこともなかった。これまで何回も渓流魚を釣るために山に入ったことがあったのに、一度も経験したことがなかった。カモシカの蹄に入り込んで移動するらしく、昔渓流釣りの本で紹介されたときは、特殊なところでとのことだったので、認識のかなたにあったままそんなところへは行かないと高をくくっていた。

 栃木県の「水源地」で写真を撮ろうということで、山道を少し登ってから川に下って歩いた。ちゃんと山道がはっきりしているところだった。確かにうっそうとした森で、雨が降った後でもあり、湿気があってぬかるみもあった。歩きながら撮影のポイントに気を取られて、立ち止まったことも数多くあった。二時間ほどだったか3人で歩き回って、その水源地エリアからで出た。

 車で少し移動し、湧き水を汲みに行ったところで、2人が足首の上あたりが血だらけになっているのに気が付ついた。あわてて取り払ったものの、何も感じないとのことで、ヒルのたいした芸当に驚いた。敵は意外と動きが早くて、「飛びつく」という感覚が言われるほどらしい。

 友人の別荘についてから、何げなく自分の足を見ると、なんと靴下の中が血だらけ!車の中でやられた。尺取り虫のように動き回るが、くっついて血を吸い始めても何も感じさせないヤツなんて、トンデモないやつだ。ちょうどFacebookの「渓流つり」のページで、ヤマヒルとダニの話が書いてあり、ヤマヒルの生息範囲も相当あるとのことがわかった。登山でもところによっては備えをしていかないと、やられることがあるらしい。喰いついたヒルはどこに行ったか不明だった。















2020年6月20日土曜日

ご近所界隈、自粛の街

 「コロナ禍」で巣ごもり生活を強いられる、これまで体験したことのない妙な生活から、抜け出したいし、写真の目から言ったら記録になりそうな状況を覗きたい。との思いが鬱々と湧いてウォーキングがてら近所を回って歩く。「解除前」の時だったから、あたりまえながら人けがなく、あっても行き交う人が少ない街は、なにかゆったりとした様子で、これまでの日常のようなザワザワしたものが感じられず、ドラマの田舎暮らしかヨーロッパの国にいるかのようだった。

 そこに見えるものは限れたものにならざるを得ないにしても、あまりにもお粗末な政治の動向や困難な生活を想像することはできそうだ。ただ、もっとあるだろうものに接近することができたかどうかは、やっぱり腕前との関係かも知れない。