2025年1月22日水曜日

元気が出るのは新しい環境がいいのかな

高齢者に限るわけではなく誰でも、元気をだすのは「新しいこと」への挑戦が刺激になっていいのかと思う。断捨離を日々心配しているだけでは、「先」の楽しみと夢がなくなってしまう。そんなこというまでもなく、当たり前に考えていることなのかもしれないが、なにせ「つれづれごと」があふれている毎日ではおぼれているようで、息まで苦しくなってくる。

一路後退の道にいくのはあんまりだから、ジタバタとして延命策を考えるのは、希望までにはいかないが当座のやりようとしていいのかもしれない。そんなことを思った写真グループの例会だった。どこの会でも活動が縮小気味で、新しいメンバーをとの思いはあっても、会員が増えることにならない。それで、他会と合同で例会をやろうということになった。

少し緊張気味になるのが幸いして、持ち寄った写真の数も多かった。4月に写真展をやることで会場も抑えられたので、展示作品を選び出す作業が、いつもより集中してできた。やはり「観察眼数」が多いので、様々な見方が出されて充実したものになった。

立川の地で開催する写真展で、実のところ作品を運んでいくのもどっこらしょ状態で、大変だという気持ちが先行していたけれども、賑やかな合評会で力をもらった感じがする。合評会が終わってからの交流会でも、この勢いでやっていかれればいいなと思えた。他会主催の例会にも参加しようかなという気にもなった。かくして、またしても断捨離をものともしない勢いだった。新しい環境とは刺激的で罪なものだ。 




2025年1月19日日曜日

くしゃみが災いの元でなく?

最近、寒さを強く感じて暖房をよく使う。以前はなるべく省エネでとしていたのに、今は耐えられない感じになってなった。朝トイレに行くにもしっかり身支度を整えてから行くようにしている。それにしても、場所が場所だから露にする部分があるのだから長居はできない。

でもそこで新聞を読むのが長年の「たしなみ」で、一日の始まりとしては大事な行事でやり方を今さら変えることは考えられない。くしゃみはそれだから遠慮会釈なくでてくる。朝方だからどこまで聞こえていることやら。

目が覚めた時に鼻づまりを起こしていて、シーパップの影響ではないかと思うけど、鼻詰まりの解消のために反応しているのかと思う。一昨日の診療のときその旨を話したが話題がそれてしまって、相談にはならなかった。

暖房で温かくなるとまた鼻が詰まってくるやっかいなことで、空気が冷たいと通りが良くなる。そのために外に出わけにもいかないし。もう花粉が飛んでいるとのテレビ報道があって、そうかその問題もあるなと気が付いて、昨年残っていた花粉症の薬を飲み始めた。これで少しでも収まってくれるといい。


 

2025年1月16日木曜日

面倒を避けたいけど押しかける「広告」

スマホの交流サイトでも、大量の広告を見せられる。この人にこういう広告はどうだろうと、AIを使って入ってくるらしい。フェイスブックで友人になっている人が、ある広告に「いいね」をチェックすると、友人が見ているよと知らせてくる。正直興味があるものがないわけでもない。クリックして覗いてみるとたいがいは、程度の悪い商品が紹介されていることが多い。何回も見ていると大方は餌に食いつく魚のような気分にさせられる。

消費を促すと言えば聞こえがいいけど、ひっかけるような手法は釣りだけでいい。出てきた広告が「イヤ」であれば、×印からやめさせることはできる。しかし興味がないなら別の広告を入れるというわけだ。こちらは「物忘れ症」に取りつかれているから、忘れていた必要品を思い出させてくれる効果がなくはないが、余計なお世話だと思うほうが多い。必要ならNETでいくらでも検索できる。

迷惑メールもだんだん手が込んで、うっかり内容にアクセスしてしまいそうなこともある。このところ携帯への迷惑電話もくる。番号通知をして正義面をして電話にださせようとする。固定電話は我が家ではついに、「録音する」とコメントをだして直接の応答はしないことにした。電話は相手の番号を記憶するか、電話帳に登録してそれ以外は出ないようにする手しかない。

ソーシャルメディアでは「ファクト」(事実、真実)でない情報が世の中で大手をふるっている。嘘や悪意を先行させれば、正義も何もあったものではない。アメリカの政治も危なっかしいなと思うが他人ごとではない。兵庫県知事の選挙、都知事選の結果は、NETの力が影響をしているのだろうし。民主主義が危ない。そうすると、厭世的になって放り出すというわけにはいかないのかなと思う。でも、物事こなすのに面倒くさいことになっている年寄に、どれだけのことができるのかを思う自分がいる。




2025年1月13日月曜日

志あれば、いくらかの力がでるかな

断捨離を心掛けつつも、なかなかできないものだ。できないのも年のせいにして、働きの鈍い頭と手足を動かして、「抵抗」を試みる。そんなこと考えずに気合を入れてという気持ちの切り替えも、なにか少しずつできなくなってきた。いままでやってきたことを、さっとちょん切ってしまうことも、いいのかなあと別の声も聞こえる。いい加減にしろと折り合いをつけることなく、「めんどくさい」とさようならをする手もあるんじゃないかと思うこのごろ。認知症の気は感じても手足は動くし、食欲もあるからその限りではまだ健常者には違いない。

今月は合唱団の「65周年記念の演奏会」を控えて、練習も大詰めになってきた。「自習」をしなけりゃ間に合わないから、気にだけはしているけどほかにやることもあるし、子供のころの「勉強前の鉛筆削り」みたいにぐずぐずとしている。今はスマホのレコードアプリで音声記録ができて、スイッチさえ入れれば聞くことができる。これが、いつでもできるとなるとまたサボリの虫が動くし、困ったことだ。

でも、練習しているときは、難しいとか理解できないと感じて、ともかく楽しくなかった。それが、練習を重ねて慣れてくると、歌う曲の良さを感じるようになり「楽しさ」がでてきた。合唱がぴたりとはまると、曲と歌詞のすばらしく心地よさが広がる。かつては、この楽しさや心地よさがよく感じられたものだったが、今はここまで来てやっとその境地にはいることができた。じつはもうだめなのかとあきらめかけていた。暗譜が要求されるので頑張ってみるが、やっぱり危ない感があって難しい。



2025年1月10日金曜日

「年賀状じまい」は誰のせい?

日本郵便によると、発行枚数のピークが2004年用の445000万枚だったのに対し、今年は107000万枚。元日の配達数は2022年が103000万通だったが3年で半数以下となった。同社広報部の担当者は「SNSやメールでのやりとりが主になっている。特に今年ははがきの値上げが大きかった」。昨年10月の郵便料金値上げで年賀はがきが63円から85円になった影響を挙げた上で「年始のあいさつを送り合う文化を残していくためにも対応が必要だ」と危機感を口にする。(東京新聞1月7日)

そりゃそうでしょう。「明治20年(1873年)前後には、年賀状を出すことが年始の恒例行事」となったとのことで、それから150年もお付き合いしてきたものだから、正月文化のひとつとして生活に溶け込んできていた。しかし、「年始のあいさつを送りあう文化を残していくために…」といわれても、35%もの値上げをしておいてそんなセリフはない。それこそ民営化などしなければ、これほどのことはなかったのではないか。

社長は郵政、総務官僚出身

千田 哲也(せんだ てつや)は、日本の実業家であり、かつ、郵政総務官僚。株式会社かんぽ生命保険代表執行役社長を経て、20236月から日本郵便株式会社代表取締役社長兼執行役員社長

赤字でもなんでもない郵政省を解体して民間事業体に変えてしまい、官僚が天下っている組織だから、庶民の痛みなどは考慮の対象はなっていないのだ。まさに日本文化の破壊ではないかな。交流サイトでの挨拶に変えられることほど軽いことでないし、こうして無理やり変更をさせることで、日本の文化がなくなっていくのは、時代の変遷と片付けていのだろうか。










2025年1月7日火曜日

宿のお湯がぬるくって

 冬の温泉はとりわけ魅力があって楽しみにしている。宿について温泉につかってから、夕食前に飲むアルコール類がパターンになっている。最近は缶酎ハイが多いが、乾きものを少しつまみながら、旅一番の至福の時を過ごす。その分、宴会時のアルコールが抑えられる。部屋に持って入った荷物を定位置において、すぐに温泉に入った。ところが湯の温度がいやに低い。かなりじっくり入ったのに、温まらない。女性陣が貸し切り風呂にいったら、やっぱり同じようだったらしい。ああ、これじゃ楽しみが半減だなとみんながっかりした。

 風呂はシャワーのお湯がぬるいと話を聞いて、洗うのは部屋の風呂でということだった。部屋の風呂は最近新しく作った風で、檜風呂(一人用)になっている。仕方なく部屋の風呂で温まることにした。夕食を終えてからも翌朝も温泉には入る気にもならなかった。そのうえ朝は雪がちらついて、温泉が余計に恋しい。

 冗談で話した日替わり温泉にいくアイディアがまとまって、車で出かけることにした。それでも宿のタオルは隠してフロントを抜け出した。少し遠かった温泉は、先頭に近い感じだったが、料金410円とうれしい値段だった。ついでにいつものパターンの道の駅さがしでスマホ検索。行ってみるが正月休みで営業していない。ねばって探して安曇野の「風穴の里」にようやくたどり着き、昼食のソバにありついた。

 宿へ戻って何の気なしに温泉にいってみると、なんと昨日より暖かくなっている。41度ちょっとくらいはあっただろう。日帰り温泉代410円を宿に出してもらおうかの冗談は立ち消えになった。




2025年1月3日金曜日

2日から奇跡の9連休に参戦

 我が家のメンバーがそろうのは2日。温泉があれば食事はなんでもいい派と温泉と食事を両方満足したい派が一堂に会して、美ヶ原温泉に出陣。出陣とは穏やかな言葉でないが、参戦よりもいいか?しかし今年はなんとかして戦争に歯止めと思い願う。このままいけばの先は考えたくもない。安全保障で軍備と軍事の拡大といっても、社会方負担増や値上げにさいなまれる日常生活の「安全保障」はどうしてくれるのか。経済成長があってとの幻想は、もう消費期限はとうにすぎてる。せっかくの与野党逆転。びしっとした政府追及に腰を入れてもらいたい。この正月も平和であってこそのこと。






2025年1月1日水曜日

2025年さんにご挨拶「ことしもお手柔らかに」

新しい年の良さは何かといえば、刺激的なところがいいのだと思う。新たな気分で、あれこれやると意気込むような「歳」ではない。できうれば、なるべく安穏で気楽に、のんべんだらりと暮らすのを夢にしたい。とは思えど旧年にはパソコンの不具合にあって、三日くらい復旧作業に取り込まれた。大晦日になんとか目鼻がついたので、〈BSテレ東〉で年越しカウントダウンコンサートを楽しむことができた。アイーダ凱旋行進曲の演奏が終わったその瞬間に2025年の幕開け、カウントダウンの仕掛けお見事でした。

めでためでたの若松様よ


この民謡は、もとになっているのが「伊勢音頭」なのなそうで、江戸時代に何回もあった伊勢参りブームによって全国に広がったらしい。「伊勢音頭」は「荷物にならない伊勢土産」ともいわれているのは、うなずけること。能登では、「『七尾まだら』の歌詞はね、『めでためでたの若松様よ、枝も 栄える葉も茂る」たったこれだけの歌詞なんですよ。まだら始めてから終わるまで
410秒の間に手拍子77回 叩く。』」と紹介されている。ものに歴史ありというか、全く知らずに、故郷山形の民謡だと思い込んでいた。恥ずかしながら、新年に開眼!めでたい。

「目出度目出度の 若松様よ 枝も栄えて 葉も茂る」

2024年12月31日火曜日

災い転じて福となす?でいくか

 パソコンを初めて触ったのは20年も前になる。仕事の道具で使うのでないから、誰にせかされるわけでもなく、好きな時に好きなだけやることで、ほぼ遊び道具として動かしてきた。日記と買い物レシート書き写し、新聞の切り抜きスキャンが日常の仕事となり、ブログ書きが2011年から始まった。写真を扱うことになってパソコン使用の領域が広がった。撮影した写真を取り込んで現像、プリントをこなすようになって、パソコンも酷使され続けている。

 ホームページ作成を曲りなりに教えてもらい、その更新も加わってきたら、忙しくなってきた。指図を自分でやってきたのだから、文句は言えないし、なにより⋯自分のノウミソに刺激をさせるのも主要な目的なのだから、健康のためが大義になってきた(と思いたい)。

 そうとは言え続けることを日常の課題として、ここまでやってきたものが、ここまできたのはいいとしても、動きの鈍くなったノウミソには酷なことになっているのかも。パソコンの不具合は、助けを写真ゼミの先生にお願いして、解決の方法を援助してもらった。そこから解決の糸口を教えてもらって、どうなるかと気にしながらやってみた。判断できないところがいくつも出てはきたけど、試行錯誤をしつつだいたい解決方向が見えてきた。

 20年もいじっていながら、いまだにわからないことがたくさんあって、よくよく「深くて面倒」な道具なんだと今更ながら思う。それは専門家が束になって開発にかかっているのだから、あたりまえではあるけど。スマホも同様だけど、どんどん仕様がかわっていくから、そこに合わせて使っていくのは、簡単とは言えない。若者のとりつき方がぜんぜん違って苦にしていないように見えて、「年寄」には少々扱いにくさがあることも確か。我がノウミソの動きからして同じようにはできない。

 2024年がどんな年だったかは、日記と首っ引きで見ないと思い出さないから、もうテレビを見ながらつまらないことは振り返らずに、「福よ来い」としようか。

写真は池に沈んだ落ち葉 頭のなかもこんなかな


 

2024年12月29日日曜日

暮れを忙しくするのは誰だ

 なぜかざわざわしてくる暮れの時節。働いている人方は年末の稼働時間が少なくて、契約の完成日に遅れないようにとか、年内決済へむけた支払いのためなどに駆け回っているかも?支払い「困難案件」も、ものみな値上げのなかで、どれだけになるものだろう。

 江戸時代の大家の家賃取り立てには、店子が手段を駆使してしのぎ大晦日を迎える。除夜の鐘が鳴ってからは「とりあえずの保留」になって、新年を迎えれば松の内は安穏に過ごせるという(落語の話)。我が人生のつまらない経験をひきあいにすると、債権回収は、三が日明けなら(油断しているから)「押さえられる」という事例があった。権力機関にあるものがあらゆる「合法的」な手法を使って「債務回収」を実行することはまったく常識のようなことになっている。

 その常識の発信先は、働く場の有り様に起因しているものだ。ブラスかマイナスか、効率的なのかどうか、成績になるのかならないのか、事業のために、そんなモノサシが当てられて、背中を押される。その結果は想像するまでもなく、強いものが立場の弱いものをたたく図式が成り立つ。たたかれるほうに原因があるとした浅薄な結論では、今の世の中不幸の連鎖しかない。「しばらく許されよ」の場面は成り立ちにくい。

 けれども、そんなスキマのない社会は、いい世の中といえないだろう。逃げ道のない蟻地獄になっているのではないか。新しい年をむかえていくらかでも希望が持てる未来があるとすれば、「助ける政治」であることは疑いのないことだ。来年こそ日常生活の「安全保障」をしっかりお願いしたいもの。

 長浜公園(熱海の先)でみつけた桜(2024.12.18)










2024年12月27日金曜日

パソコンの中のお掃除失敗

 暮れにきて整理するつもりが、散らかしてしまった。パソコンになかのドライブ(引き出し)にしまってあった場所が、かなり多くてあふれそうなので他の「引き出し」に移そうとした。方法がわからず少し迷ったけど、例によってNET検索を使って調べた結果、移動そのものはうまくいった。ところがそのあとに付随することで、余計なことをしてしまい、二重にファイルを保存するハメになった。
 
 ディスクトップ(パソコンの初期画面)にすべてのファイルが表示されてしまい、それを削除するとファイルがなくなってしまうという厄介なことになった。これは自力ではできなそう。とりあえずの作業はできるので、支障はないがなんでも知ったかぶりをしてやってはいけないなと反省。
 
 写真は、先日伊豆にいった時のもの。何回も伊豆に行っているのに修善寺の「寺」を訪れたのは初めてだった。お寺の写真をとるときにはいつもお賽銭をあげるのだけど、ここにきての不幸は金額が足りなかったせいかな? 







2024年12月25日水曜日

理不尽さには「削除」の力がいる

 物事がうまくゆかなくて、最初に戻ってということがよくある。日々の人生でも元に戻したいことはしょっちゅうある。近頃パソコンやスマホを使っていて、アプリの使用でどうするのか分からなくて迷うときには、試行錯誤の末最後には削除とかアンインストールだとか、初期化とかで修正する。経験や慣れにもよるのだろうけど、「間違ったらどうしたらいいのか」をわかりやすくしてもらうことが大事だと思う。人間生活の常識で判断できないことがしょっちゅうある。デジタルの構成だから仕方がないとしても、人間の道具にして使えないというのが壁として大きい顔をされては困る。

 やみくもな方法で試してはうまくいかないと、スマホをたたいてみたりする。気の短に気付くことはあっても、「削除」でこの世から抹殺する怖さをその時は感じない。もう少し前の時代であれば、間違っても修正することに、もうちょっと鷹揚に扱うことができたし、周りも直すことに寛容さがあった気がする。

 デジタル社会に無理やり付き合わされた挙句、マイナカードを使えと「ポイント」という名の金でつられて、健康保険証まで無くされるという理不尽さは、なんとも許しがたい。こんなとき「削除」の言葉が欲しくなる。民主主義の世の中では国会で修正するしかないから、選挙結果は重大だけど韓国民の「合法的平和的な意見表明」のように、理不尽さを削除する方法で、圧倒的な世論をつくることが日本でもいるよなと思う。どれだけの理不尽さがあるのか、ひどい日本だなと思う。その「筋」にはやりたい放題じゃないか。💢








2024年12月23日月曜日

大掃除しなくちゃ、でもいい加減に

 大掃除という一大行事も結構な仕事に感じるようになって、手抜き気味のやり方になっていく。集中してやるという気が薄れてしまって、困ったことになってきた。なにせゴミのもとになるものには年中取り囲まれている。新聞の切り抜きあり、月刊雑誌あり、その他生活にかかる購入物ありと狭い部屋が余計に狭まっている。気合を入れて「捨てる」こと抜きには整理ができないと思ってはいるものの、これが難しくて進まない。たまにやっても毎日やるというわけにもいかない。

 それに加えてパソコンとスマホのファイルがゴミの予備軍として増え続く。気軽に保存できるのが、なにか整理がついたように勘違いしてしまう。記念写真と同様に、あとから見返すことは多くはなく、後に「廃棄」の作業を待つ運命が」待っているだけになる。作り上げたホームページが10本以上あり、撮った写真の数は7万を超えている。場合によっては、パソコンは電源を切ってしまえば、他人に使われることはまずないし、相続などにかかわる財産はないから大筋心配なさそう。しかし本来ホームページのように「宙づり」になっているものは、中に他人と具体的につがなっている場合があるので、なるべく先に整理をしたいと思うところ。年末のせっかくの機会なので、さぼる気持ちに鞭打って、「掃除」をするように頑張らなくては。




2024年12月21日土曜日

温泉がいいのは家の風呂がぬるいから

 家の湯船につかるとだんだん温まるにつれて、湯の温度が下がっていく。どうしても寝る少し前に入りたいものだから、家族が先に入りしばらく経ってから風呂に入る。湯に浸かった当座は暖かい瞬間があっても、温度が低い分「追い炊き」を使うことになる。「温泉であればこんなことはないのに」という気持ちがたまって温泉の旅への楽しみになっている。

 我が家のイベントは温泉の旅で、義父母が生きているころには正月と夏には必ずでかけた。今は子供たちの仕事の関係で、正月以外はなかなか揃うことがない。家族で行く場合は「高級感」が選択肢に入ってくるが、我が旅の場合は、永らく釣りで行く旅ゆえ料金が安いところを探して宿を決めていた。釣りは行かなくなっていても、その方針が身についている。

 良い宿を紹介する本を見つけて、載っていた温泉宿をねらって出かける。料金もまあまあで紹介されている。その一つが修繕寺の近くにあった。お気に入りになっていて、3度目の訪宿になった。おりしも気温がぐっと下がってきたときで、期待して行ってみた。温泉は透明で掃除がいき届いている。宿は静かなところだし、穀物中心の健康食が良くて、通常の高級料理で食べきれないということはない。

 早めに旅館に着いて、ひと風呂浴びに…ところがその湯がぬるい。どうしたことかこれまでは肌合いにピッタリの温度だったのに、なかなか湯船からあがれなくて、もしかしたら地震の前触れなのかなどと考えながら、首まで浸かって長湯してしまった。風呂場に行くには渡り廊下があって風が吹き曝しになっている。さすがに食後の3度目の風呂は寒くてまいった。翌日は修善寺まで出かけて「日帰り温泉」に浸かってきた。








2024年12月19日木曜日

近所の公園でフウーと息をするとき思うこと

 なにゆえ蜂の巣のような棲家群が高いビルに集められ、夜には人がいなくなる寒々しい事業所ビルがとめどもなく建設されるのか?と公園の木々の下で思う。公園の運動場では子供たちが野球、サッカーをして駆け回っている。フェンスの外では年配のご夫婦や、何かを口に頬張りながらベンチでくつろぐ人の姿もある。保育園の子供たちが、毎日の散歩で巡っている。これが街なんだよなと思いながら眺める。こういう場が増えれば憩いの時間が持てて、鬱陶しい日常にやわらぎの時間を過ごせる。

 中野区は北の区域にJRが通っているから、対局の南側が「都市開発」からは離れた(逃れた)位置にある。中野駅北側は「再開発」でびっくりするような改変が進んでいる。50年も中野に住んでいると、いっぱしの住人だから言わせてもらえれば、中野区は人が長年「棲み処地域」としてきたところだ。ここに企業オフィスや高級マンションの住民を呼び込むような発想ってどんなものだろと思う。

 環状7号線の内側に副都心をつくるなどという、無謀な都市開発を行政の方策とし作り上げた。それを熱心に追及することが行政の役割かと思うほど、不動産業界と「共同」したマッチングで進められてきた。だからこそ政治団体への袖の下(献金)の効き目を感じざるを得ない。

 低層住宅が保全されて公園が広がれば温暖化に対する影響にも効果的なことだと思う。高層ビルは「高層」でないと事業的には成り立たない。高層ビルの従業員人口と居住者人口の増大で公共事業の負担や水、電気ガスはどれだけ使うことになるか、炭酸ガス排出量が多くなることに違いない。夏のビルは「湯たんぽ」だろ?冷房についやすエネルギーが「原発稼働」の理由にされたらたまらないし。

 東京一極集中への批判の声はあまり聞かれない。少なくとも現政治の中では配慮はどこにも見えない。急ぐべき「改修」事情がどれだけあるのかを無視して、「再開発」でいいか。地方が枯れるばかりの偏った開発はおかしい。








2024年12月17日火曜日

去りゆく秋、また先の一年が速足でやってくる

 なにせ時間が早く行き過ぎて、もうちょっとゆっくり頼みたいところでも、誰も許してはくれない。考えてみれば世の中の移り変わりの速さ、事件の多さに押し出されている気もするし、我が身はこれまでどおりのペースよりはごゆっくりと、たしかには減っていかない様々な用事をこなすのだから、結果は時のたつのが「早い」ことに甘んじる以外にはない。物事こなせなくなると、しょうのない苛立ちをもったりして、困ったものだ。

 気温が5度前後にもなって、えーもう暮かよ雪かよ正月かよと追いかけられて、秋の写真を忘れていた。近所の秋もちゃんとある写真を見ながら、秋の模様をみれば少しは時間が止まってように見えるだろうか。中野坂上の中野の森公園。高層ビルが寒々しい。ビルの谷間で木々が秋を象徴しているけど、太っちょのビルに囲まれて大きく育つことはなさそうだ。人間のエゴというべき可哀そうな処遇だ。